うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

他者に共感するだけでは足りない

イードブルデュー、タン

エドワード・サイードのいう「知識人」は、エリート的ということもさることながら、自己決定できる、自己決定に責任を負える強い個人を前提としている。しかし、そうした強さは、やはり、社会の一定数にしか到達不可能ではなく、それを前提とした社会を設計することは、なにかしらの排除を受け入れることになってしまう。

「反省的=自意識的主体」を大前提とすること、それはいわば、ピエール・ブルデュー的なメタ認識をリアルタイムで自らにフィードバックできる主体をデフォルトにすることにほかならない。それは理想としてはありえる。実現されてほしい理想ではある。しかし、それは無謀ではないか。それを目指すのは、あまりにも無理があるのではないか。

オードリー・タンが、社会的弱者をデフォルトとするソーシャルデザイン(たとえば、身体障害者にとって快適なアーキテクチャー)が必要だと主張しているのは、倫理的に正しく、効率的でもある提案だ。

 

他者が身近にいることを認識するだけでは足りない

社会のなかに別の意見があることを知る/理解するのが重要だというのは当然だ。しかし、そこで終わってしまっていいのか。それが裏目に出る可能性はないのか。そうした危惧が自分のなかにあるらしい。

同じ共同体のなかに他者がいることを承認することは、ただちにインクルージョンをもたらすわけではなく、セグリゲーションに終わる可能性もある。というよりも、歴史的に言えば、セグリゲーションに終わってきたといったほうが正しいのではないか。

「内部の他者」や「見えない隣人」の存在に気がつかないと何も始まらないのだから、まずはそこを可視化/言語化しなければならないというのは、正しい。ただ、次の一手が必要だ。

承認のモメントに力点を置きすぎると、「わたしはわたし、あなたはあなた」という相互不干渉的相対主義をもたらしかねない。各人の「善意」や「熱意」にまかせるのは、危ういのではないか。インクルージョンに至るには、ある程度はインテグレーション的な結集力、中央集権的な力がいるのではないか。 

社会的包摂のためには「他者理解」でいいのかという疑問が自分のなかにある。「では、お前はなにをオルタナティヴとして掲げるのか」と問われると、答えに窮する。個人モデル(ある個人から、まだ見えていない他者)でいけるのか、という疑いが漠然としたかたちで自分のなかをただよっている。ということを、ブレイディみか子の『他者の靴を履く』を読んで感じたことを、いまふと思い出す。

 

ボトムアップとボトムダウンと複数的なものとしての社会

「他人の身になって考えましょう」式の共感的アプローチが届く層、そのようなアプローチが触媒として機能する層は、たしかにいる。しかし、それはいわば、すでに「持っている」人たちであって、「持たざる」人々にまでそれが届くのかどうか。そして、後者にアプローチできなければ、結局は、社会のなかにインクルーシブなスペースを創り出すだけで終わってしまうのではないか。それで、社会自体をインクルーシブに変容させることはできるのだろうか。

戦略的にあえて啓蒙的主体の自由を信じるという一手は、ありえる。しかし、多様性は大事だが、それはあくまで入口であって、目的地ではないだろう。社会は多様で複数的ではあるが、同時に、単数的な統一体とまでは言わないまでも、ある種の集合体(1という単数ではないにせよ、2とか3のようなそこまで多くはない複数的なもの)でなければ、社会としての結合力や凝集力を維持できないのではないか。

結局のところ、熱意と志のある人(率いることの出来る人)と、ある程度の持続可能な予算があれば、社会的包摂度を上げるためのプロジェクトやプログラムを導入することは可能であるし、それを成功させることもできるし、そのノウハウを場所を越えて共有することもできるだろう。

問題は、局所的でローカルな試みを、社会全体に広げていけるのかどうかだ。局所的な成功は、決して自動的に同心円状に拡大することはないだろう。おそらく、どこかのポイントで、戦略的な方向性を質的にスイッチさせる必要性があるような気がしてならない。

とはいえ、上からの啓蒙を組み合わせればいいのかというと、それはすでに散々試みられて、あまりうまくいっていない(いかなかった)ような気もする。ボトムアップとボトムダウンを効果的に組み合わせればいいという単純な話ではない。

とはいえ、やたらとナッジ的な手段に頼るのは、倫理的に汚い気がする。最初から暗黙の操作を前提で騙し込むのはよくないのではないか。性善説的な善意と、性悪的な善意の中間を模索するべきなのだろう。

 

心ある少数派の連帯で突破できるか

階級やアイデンティティグループをこえた連帯が重要なのはまちがいないし、そうした連帯を促進するためのスペースづくりは絶対に必要だが、それを局所的なところから社会全体に拡散していけるかどうか。

物事というのは、関与している集団の10‐20%が変われば変わっていくものだ、という話をどこかで読んだ記憶がある。もしこの統計的事実が社会全体に当てはまるとすると、心ある人々の連帯でその閾値は突破できる可能性は小さくない。

しかし、そうした局所的な突破からの全体のなし崩しは、トランプのような存在の台頭を許す土壌を発酵させてしまう。頭ではしぶしぶ受け入れても、腹の中ではまったく納得できていない層を存続させてしまう。

 

メタ的なナッジによる搦め手

ナッジ的な手法は批判したい。しかし、メタ的なレベルでナッジ的に社会を設計し直していくという道しかないのではないかという気もする。メタ的にというのは、たとえばすでにもう実践されていることではあるけれど、「性別」欄で、「男」「女」の二分法を多様化させていくとか、公に開かれた施設では「多目的トイレ」(ジェンダーフリーなスペース)を作っていくとか、道路をバリアフリー化するとか、社会の全スペース(マテリアル、バーチャル両方を含めて)をインクルーシブにしていくことによって、社会の成員の心理や感性それ自体を質的に変容させること。

 

誰がその担い手となることができるか

そのためには法制的にかなりラディカルな革命が必要になってくる。そして、それほどの政治力と持続的熱意を発揮できる「団体」があるかというと、どうなのだろう。個々のイシューで考えれば、そういう団体はあるはずだ。夫婦別姓を推す団体、LGBTQのための団体、というように。しかし、そうしたアイデンティティポリティクスを越えて、社会「全体」の再設計という方向に持っていくにはどうすればいいのか。

かといって、心あるマイノリティグループの連帯によって社会を変えていけるかというと、それも心もとない。性質的に保守的(conservativeというよりもpreservative)である社会は、かならずそうしたマイノリティのプロテストに反発するだろう。それは意識的なものというよりも、反射的で機械的な反応だと思う。

 

基準値を定めることはできるか

オードリー・タンが言うように、今の社会のアーキテクチャーは社会的弱者にフレンドリーなように設計しなおされる必要がある。いまの社会設計のアベレージは下げる必要がある。それはもしかすると、健常者を基準として障害者のほうを例外的に扱うという現在の図式を転倒させ、健常者をマークされた特殊な存在にし、障害者のほうを基準とすることだ、というふうに表現できるかもしれない。

しかし、その基準点をどこまで下げていくかは、アプリオリには解決できない問題だ。

どう決めても恣意的なところは残るかもしれないし、どこかの層は何かしらの不便を感じるだろう。これはWin-Winというよりは、ゼロサムゲーム的なものかもしれない。誰かにとっての快適さは、ほかの誰かにとっての不満になるかもしれない。

もちろん、これは対称的なものではない。たとえば、男女別のトイレスペースを一部削減してジェンダーフリートイレを作ることで、助かる層はいる。それと同時に、男女別のトイレを使用していた層からすると、トイレの数が減って不便になる。しかし、後者にとってそれがあくまで「不便」(効率性の低下)でしかない一方で、前者からすると、ゼロだったものがプラスになったようなものだろう。社会アーキテクチャーの再設計は、効率性の増減ではなく、可能性の増加(これまで出来なかった層が出来るようになる)を基本に考えなければならない。

 

ワークインプログレスなものとしての制度

しかし、はたして、排除を最初から完全に排除することはできるのだろうか。どれだけ配慮したところで、何かしらの排除は生まれるだろう。いまこの瞬間にはないとしても、これから先そうなってしまう可能性は残る。

というよりも、最初から完璧なシステム=制度を作ろうというのは、悪しき意味でのユートピア主義だ。そこで前提になっているのは、現実=現在にたいする全知であり、未来の完全な予見可能性だ。それは、究極的には、傲慢だ。わたしはすべてを見通しているし、今後も見通すことができる全知の主体である、という意識。

本当に重要なのは、排除しない制度を最初に作っておしまいにすることではなく、排除が判明したとき柔軟かつスピーディーに変更できるアジャスト機能をビルトインした制度を作ることではないか。

ジュディス・バトラーは、普遍性を、拡張可能で調整可能なものとして捉えなおそうとしている。制度をワークインプログレスなものとして考えようという発想は、そこから借りてきたものだ。しかし、ワークインプログレスな制度は、はたして「制度」と呼べるものなのだろうか。

というも、システムをリジッドに組むのには理由があるからだ。システムの濫用を防ぐため、運用者の恣意性や裁量制を制限するため、つまり、公平性や平等性を担保するため。問題が発生したときに簡単に変えられる制度は、制度としてそもそも危うい。暴君の台頭を許容しやすい。このあたりについて先行研究はないだろうか。システムの可変性とその濫用度のトレードオフポイントはどのあたりか、という研究。

 

カテゴリーとシンギュラーなものの交渉可能性

特定層にとっての可能性の増加と、全体にとっての効率性の増加を釣り合わせるのは、きわめて難しいだろう。それに、「層」として集団を扱うことは、それを構成するひとりひとりの独自性をないがしろにすることにもなりかねない。

しかし、集団をカテゴリー的に扱うことでしか成し遂げられないものもあるように思う。抽象化なしには、全体のデザインは不可能だろう。というよりも、抽象化を行わないとすると、すべてのアーキテクチャーを場の状況によって変更しなければならなくなる。アーキテクチャーの設計がコピーできないとなると、カスタマイズが必要になる。そして、カスタマイズすればするほど、その内部で公平性や均質性を担保するのが難しくなるだろうし、アーキテクチャー間の公平性や均質性を確保しにくくなる。地域差が発生してしまう。うまく運営できるところとできないところが発生してしまう。

結局のところ、カテゴリー化から逃れるような/逃れたいと願うシンギュラーな存在は、独立独歩で行く強さを獲得するか、さもなくば、シンギュラーさをある程度は自ら(一時的に)放棄して、戦略的本質主義に移行する――個としての弱さを、数の力に転化する――という二者択一を迫られるのだろうか。