うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

鉱物的な鋭さ、音の線の運動:第二期ジュリアード弦楽四重奏団の異様さ

ジュリアード弦楽四重奏団はいまも存続しているが、自分にとってのジュリアードといえば、ラファエル・ヒリヤーがビオラを弾いていた時期、そのなかでも、50年代後半から60年代中ごろにかけての録音がまっさきに浮かぶ。バルトークの6曲、ベートーヴェンの中期(ラブモフスキーの3曲)に10番11番、モーツァルトハイドン・カルテット。

ジュリアードの演奏の正確さや精密さは、いまあらためて聞くと、どこかアナログ的な手ざわりがする。現代のトップレベルのカルテットと比べて技術的に劣っているというわけではなく、尺度の感覚が異なるのではないかという感じがするのだ。

ジュリアードはざっくりやっている。音を合わせるときの目盛がかなり大きいような感じがする。精密に図面を引いて作った微小のパーツを神経質なまでの丁寧さでちまちま積み上げていくのではなく、現場で臨機応変に大きな筆致で巧みに細部を揃えていくような、そんなフリーハンドな名人芸なのだ。

もちろんこれはあくまで比較論ではある。60年代のジュリアードのアンサンブルの目盛は、旧来的なカルテットに比べれば、はるかに細かかったのだろう。しかし、現代から振り返ってみると、ジュリアードはやはり20世紀中ごろに結成されたカルテット(たとえばアマデウス弦楽四重奏団)などと質的には同一線上にあったのではないかという気がしてくる。

ジュリアードの演奏が同世代の四重奏団体と一線を画するとしたら、それは音の鋭さと凝縮度の高さだろう。ジュリアードの作り出す響きが豊かにふくらんでいくことはない。彼らの音にはふくよかな甘さはない。音が混ざらない。ヒリヤーのビオラがバイオリンよりで、敏捷な捕食動物の牙や爪を彷彿とさせる薄く尖った音だからというのもあると思う(その点、後任のサミュエル・ローズのビオラはチェロよりで、線が太く、大型動物の迫力ある疾走を思わせる)。ロバート・マンのバイオリンが、その響きで空間を充たすのではなく、空間を切り裂いていく鋭利な刃のような音だからというのもある(装飾句的な上昇音型を奏でるときのちょっとうわずるような音程の取り方はマンの独特な個性だけれど、それは音の線のかたちを全体から浮かび上がらせる要因にもなっている)。

音の線が硬く、それがぶつかりあうようにあわさる。柔軟性がないわけではないけれど、それは柔らかい金属のようなしなやかさであり、根本には鉱物的なニュアンスがある。

全体的にメンバーの音は軽量級だが、古楽器のようなエアリーな感じではない。軽く薄く小さいが、その重量感は相当なものだ。だからアンサンブルとしての最終的な音に感じるのは、響きの美しさではなく、線の厳しさであり、豊かな音量ではなく、凝縮された音の重さだ。聞く方に集中を要求する音楽。

しかしその晦渋さが、アレグロやプレスト系の楽章では、圧倒的な演奏能力が作り出す生理的な爽快さと同居している。緩徐楽章では、メロディのリリシズムと同居している。スケルツォ系の楽章では、諧謔と同居している。内で鳴っている音楽は必ずしもわかりやすいわけではないのに、外に聞こえてくる音楽には有無をいわせぬ説得力がある。

しかしジュリアードにしても、そのような危ういバランスをキープすることに成功しつづけていたわけではない。ビオラがヒリヤーからローズに変わるあたりが、ひとつの大きな潮目だ。そこでジュリアードは、尖ったものから丸まったものへ、敏捷さから悠揚さへ、厳しいまでの硬さから優しくもある柔らかさへ、シフトしてしまったようである。

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