うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

最後までロックに、アグレッシヴに:エマーソン四重奏団のアメリカ性

音響のごまかしが一切効かなさそうな NPR の Tiny Desk Concert でこれほどの精度の演奏を繰り広げるのにはまったく驚かされる。そして、これほどまでにアグレッシヴさを、50年近くにわたる活動の最後まで保ち続けたことに心を打たれる。

視覚的情報に頼るのはよくないかもしれないけれど、痩せ型のドラッカー(前半二曲のファーストヴァイオリン)と、ふくよかなセッツァー (後半二曲のファーストヴァイオリン)は、それぞれ、諧謔的な鋭さと、抒情的な深みという、かなり異なった資質の持ち主であり、それらを曲によって使い分けている。

エマーソン四重奏団は、デジタル録音の黎明期と軌を一にするようにして登場してきたことも相まって、どうしてもどこか無味乾燥な印象が付きまとっていたように思うけれど(すくなくとも個人的にはそのような印象がある)、19世紀のアメリカを代表する思想家にして文筆家である超絶主義者ラルフ・ワルド・エマーソンの名を団体名に冠する彼らがたんなる即物主義者であるはずはない。彼らがたどってきた果てしない旅路は、世俗的なものであると同時にそれ以上のものであり、アクロバティックな肉体的運動の饗宴であると同時にきわめて純粋な魂の探究でもあったはずである。

ラヴェル弦楽四重奏曲の最終楽章の刻みをここまで全力に、ほとんどアマチュア的なまでにひたむきに弾くのが、引退を控えた70代の演奏家であるとは。これは何かとてもロックだ。クロノス・カルテットは、ジミ・ヘンドリックスの「パープル・ヘイズ」を四重奏曲にすることによって、弦楽四重奏というジャンルをいわば外側からロック化したけれど、エマソン四重奏団はヨーロッパのクラシック音楽を、20世紀後半のアメリカという地点から、内側から食い破っている。確かにそれに類することはジュリアード四重奏団が50年代にすでに試みていたことではあるけれども、おそらくそれをアメリカ的に完成させたのはエマーソン四重奏団の功績に帰せられるだろう。そして、録音産業という意味で言えば、エマーソンを継ぐ「次」は現れていないようにも思う。

それはもしかすると、19世紀がヨーロッパの時代であり、20世紀がアメリカの時代であったとしたら、21世紀はそのどちらでもない時代になるからと言うことなのかもしれない。そう考えてみたい気がする。

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