マルクスの『ゴータ綱領批判』で使われていること有名な「Jeder nach seinen Fähigkeiten, jedem nach seinen Bedürfnissen!」というフレーズがある。スタンダードな英訳は「From each according to his ability, to each according to his needs」だろうか。日本語版ウィキペディアには「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」と「各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」の2つが掲載されている。
これが西洋語の代名詞に強く依拠した言い回しであることは間違いない。Jeder/each で匿名的にひとりをイメージし、それをseinen/his という代名詞で受け、Fähigkeiten/ability と Bedürfnissen/needs という名詞と組み合わせることで、具体的なところへ着地させる。また、from/to という方向性を押し出すことで、動詞を用いることなく、名詞と前置詞だけで動きのあるフレーズを作り出している。
ということを踏まえると、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」は、西洋語の言い回しでは前置詞(英語の場合)や格変化(ドイツ語の場合)でまかなわれていたものが、動詞(働く、受け取る)に転化されてしまっていると言える。たしかにこのほうがわかりやすいが、西洋語の言い回しが、いわば「交通整理」的なもの——流れを定めるもの——でしかないことを思うと、これは訳しすぎだ。
「各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」は、直訳的であり、踏み外しはないが、「各人」を「その」で受けるのは、やや非人称的というか、西洋語の言い回し以上に無味乾燥な感じもするところ。
個人的には以下の言い回しを推したい。
やや意訳調の「能力に応じて各々から、必要に応じて各々に」と、直訳的な「それぞれから各々の能力に応じて、それぞれに各々の必要に応じて」。
「能力に応じて各々から、必要に応じて各々に」だと、西洋語にある所有代名詞(HIS ability/ HIS needs)が消えるが、日本語の感覚では、この語順なら、むしろないほうがすっきりするのではないだろうか。また、これぐらい簡潔にしたほうが、「…から、…に」という方向性、入って出ていく、インとアウトの向きを感じやすいのではないか。
「それぞれから各々の能力に応じて、それぞれに各々の必要に応じて」は、西洋語の jeder / each の語感に忠実であることを目指した。これだと「それぞれ」「各々」の繰り返しがわずらわしいかもしれないが、西洋語の言い回しはまさにそのような、わりとワサワサした、登場人物の多いシーンのような気もするので、これはこれでありではないかという気もしている。
ちなみに、英語だと、each は his と男性形で受けるのがある時代まで一般的であったので(man が「人間一般」を意味した時代があった)、その名残を引きずって his なのだろう。これをあえて her に変えているのを目にしたことがある。現代なら、their とノンジェンダーで受けるほうが、より開かれた表現ではあるだろう。
ドイツ語の場合、名詞の前に来る所有代名詞は、所有している人の性ではなく、所有代名詞が修飾する名詞の性によって支配されるため、英語で起こる問題は発生しない(これは名詞に性がある言語すべてに当てはまるだろう——というわけで、英語だと 「彼の本」と「彼女の本」はつねに his book/her book で簡単に区別できるのに、フランス語だと、場合によっては、 son livre à lui/son livre à elle のように区別しないといけなくなる)。