うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。Man of scienceは「科学者」か。

A man of science というフレーズがある。現在ではあまり使われない言い回しだが、19世紀の英語の文章でよく目にする。Google Ngram Viewer で見ると、1740年代後半から使用が始まり、1760年から70年にかけて急増した後、1872年まで増加傾向にあった。しかしその後は右肩下がり。1990年代以降は、再び使用されるようになってきている。

この記事("How ‘man of science’ was dumped in favour of ‘scientist’")によれば、scientist という語が英語で初めて使われたのは1834年のことになるという。使用したのは、ウィリアム・ヒューエル William Whewell で、Mary Somerville の著書 On the Connexion of the Physical Sciences の書評のなかで使われている。

ヒューエルは科学が個々の領域(化学、数学、物理学など)に断片化していく状況を前にして、特定の分野ではなく、科学的な知一般を保持する者を意味する言葉として、scientist を提唱したのだった。

そこで彼が念頭に置いていたのは artist という言葉だった。つまり、artist が painter にも musician にも sculptor にも当てはまるように、scientist を chemist にも mathematician にも physicist にも当てはまる言葉として提唱したいということだったのだと思う。

しかしながら、イギリスの人々がそのような総称として好んだのは、man of science であり、これは man of letters と対応関係にある言い回しだった。

Scientist という言葉を好意的に取り入れたのはアメリカ合衆国で、1870年代には scientist が man of science に取って代わるようになったと上の記事では書いているが、それは冒頭であげた Google Ngram Viewer の検索結果と合致する。 ところで、アメリカでは、scientist (純粋な知の探究者)と、 professional (商業利用のために科学知識を応用する者)を区別することを目的に広く使わるようになったのだという。その結果、もともとはイギリス発祥の語であるにもかかわらず、アメリカ産の言葉と受け取られていたようである。

 

Man of science にしても、man of letters にしても、フランス語経由のフレーズだろう。ところで、TLF によれば、フランス語で scientiste という語は、「scientisme (科学主義)を奉じる人」というかなり特殊な意味になるそうだ(用例を見るかぎり、ここ1世紀ちょっとの言葉のようである)。

もっとニュートラルなフランス語は、かつてなら savant (savoir (知る)の派生語)で、現在は scientifque や chercheur (chercher (探す、探究する)の派生語)に取って代わられていると Wikipedia には書いてある。

英語にしてもフランス語にしても、 science はラテン語経由の言葉だ。scientia は広い意味での「意識」や「知」を指す言葉。英語でも social science と言う場合にそのニュアンスがまだ残っていると思うが、 日常語としての science からはそのような広義のニュアンスはかなり薄まっているようにも感じる。しかし、フランス語だとその意味合いはまだ残っている感じはある。ともあれ、science にさまざまな形容詞がつくこと(natural science, social science, hard science など)は、science がそもそもかなり幅の広い言葉であることの証拠だろう。

この点で興味深いのはドイツ語だろう。ドイツ語で「科学」に相当するのは Wissenschaft だが、wissen は know、schaft は 英語で言うと friendship の ship に相当する接尾辞で、「性質」や「状態」を示したり、「集合体」を作ったりする。だから Wissenschaft は 「科学」というよりも「知の総体」という感じになる。独和辞典だと「学」「学問」という語がリストアップされている。というわけで、このドイツ語も形容詞で限定することで特定の分野を指すようになるのだけれど、いわゆる人文学 humanities を意味する言葉が、Gesiteswissenschadft (Geist は spirit の意味)なのは、ラテン語系とゲルマン語系の世界観の大きな違いが露呈する箇所かもしれない。

 

日本語の「科学」は明治期の造語かと思いきや、Wikipedia によれば、「科挙之学」の略語として12世紀ごろから使われていたとのこと。「様々な学問(個別学問、分科の学)」という意味で使われていた。明治期に science という外来語が入ってきたとき、西周が「様々な学問の集まりであると解釈し、その訳語として「科学」を当てた」という佐々木力の説が紹介されている。

ただ、Wikipedia によれば「科挙」は「(試験)科目による選挙」とのことだから、この「科目」が意味するのは、わたしたちが現在考える「科学」のことではなく、儒教や詩作のことだったはずだから、意味的には連続性がないだろう。科挙の試験科目と、自然科学を同じものとみなすのは無理がある。

 

日本の思想や言説に詳しくないので、ここからは勝手な想像を交えて進める。

西欧における homme de science / homme de lettres は、ある意味では、科学と芸術、知識と表現、自然と精神、理性と抒情、もっと単純化して言えば、いわゆる理系と文型のようなカテゴリーとして理解してよいのではないか。そして、両者は必ずしも排他的なカテゴリーではなかったはずである。

では日本語で似たような対立カテゴリーは何になるだろうか。すぐに浮かぶのは文人と武人であり、歴史をさかのぼれば、貴族と武士だろうか。たしか丸谷才一は、天皇自身が歌の詠み手であり、「勅撰」和歌集のように文芸事業をつかさどる存在である点できわめてユニークなのだと主張していたと思うのだが、前近代的な意味での天皇文人であることを伝統として保ってきた部分はあるだろう。

武人としての側面が前面に出てくるのは、軍の統帥権を握る存在として規定されていく明治以降のことであり、それは大東亜戦争における敗北とGHQによる大日本帝国の政体の解体によって終止符を打たれる。

では、日本の知的空間/言説空間のなかで、man of science はどこに位置付けられるのか。江戸期でいえば蘭学者たち(医学者たち、たとえば『解体新書』の翻訳者たちが思い浮かぶ)であり、商人たち(日本地図を作製した伊能忠敬が思い浮かぶ)であり、官製というよりも商人が作った学問所のようなところだろうか。

 

ともあれ、近世までの日本では、近現代的な意味での「科学」の空間が、物理的にも言説的にも、はっきりと分化していなかったのだろうか。別の言い方をすると、「科学」の自己確立を迫るような対抗勢力が不在だったのではないだろうか。

西洋において、近代科学は錬金術のようなものから次第に発展していった部分がある。それは一続きの伝統とは呼べないかもしれないが、科学に「前史」はある。

それから、狭義の意味の科学にしても、広義の意味の科学にしても、キリスト教との緊張関係のなかで自己を確立していったとも言えるだろう。たとえば天動説を主張したガリレオの問題であり、19世紀における世俗主義の立場からの宗教批判。

帝国主義的な征服と拡大が、世界についての知を要求し、それを独立した領域として展開させ、発展させることを後押しした側面もあるのではないか。

そのようなファクターが日本史に絶対的に欠けていたとは思わないが、日本における宗教戦争は、知をめぐるものというよりも、権力や統治をめぐるものではなかっただろうか。一向一揆にしても、天草の乱にしても。江戸期における公序良俗のための禁令は、幕府による統制ではあるが、これも知をめぐるものではないだろう。鎖国による情報遮断にしても、知の生産を管理するためというよりも、国の内と外の力学の問題であり、結局は政治の問題ではなかっただろうか。

日本に知がなかったと言いたいわけではまったくない。知はあった。それはまちがいない。しかし、それが明確なかたちで分節されておらず、そうであるがゆえに、系統的な発展が阻まれ、そのような知を担う層が意識的に形成されることも、自律的に確立されることもなく、散発的に、分散的にしか存在しえなかったのではないか。

 

以上のような仮説ともいえない妄想の妥当性はさておき、man of science をどう翻訳するかという問題は手つかずのまま残っている。

文人」「武人」との対比で、「理人」「知人」のような言葉が使えればいいのだけれど、「理人」だと人名のようだし、「知人」は「知り合い」の意味でもう確立してしまっている。

「科人」もないだろう。

「知識人」は Intellectual の定訳だ(ちなみに英語圏で Intellectual を「知識人」の意味で使い始めたのは19世紀末から20世紀初頭のアメリカのことで、たしかウィリアム・ジェイムズが、エミール・ゾラの「J'accuse」のように社会に抗議する彼の教え子である若者たちを指す言葉だったようである)。

Science にできるだけ広い意味での「(科学的)知」の意味を含めたいところだが、どうしたものか。とりあえずペンディングにしておこう。すぐに答えは出そうにない。

 

20220913付記

Science を「学術」とする用法としては、Japan Society for the Promotion of Science がある。ここでの science は狭義の「科学」ではなく、社会科学や人文学を含めてのものである。

ただ、学術振興会が出すいわゆる「科研費」の英訳は Grants-in-Aid for Scientific Research。とはいえ、ホームページを見ると、「科学研究費助成事業(学術研究助成基金助成金/科学研究費補助金)」というかなり玉虫色の訳語が公式のものではあるらしく、この場合は、science が「学術」であり、かつ、「科学」でもあることは明記されている。