うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「理解可能」な翻訳のむずかしさ:ステファヌ・マラルメ、柏倉康夫訳『詩集』(月曜社、2020)

ステファヌ・マラルメ、柏倉康夫訳『詩集』(月曜社、2020)

 

マラルメは何度読んでみてもどうしてもピンとこない。フランス語で読んだほうがもっとわからないだろうけれど、そのほうがマラルメの詩の凄味はわかる気がする。こう言ってみてもいい。日本語になってしまうと、マラルメのフランス語の危うさが見えづらくなる。その結果、おそらく原文以上に、詩の「雰囲気」が前面に出てくる。

それほどまでに詩の主題的なところにこちらの意識をストレスなく集中させてくれるぐらい、「理解可能なマラルメ」になっている――そのように訳者の柏倉康夫を褒めたたえるべきところかもしれない。しかし、ここでの「理解可能」さは、あくまで内容レベルであって、フランス語の文法の脱臼具合ではないし、訳者自身も間接的に認めているように、音韻的な側面は、フランス語と日本語の音の違い、両言語における詩作上の慣習の違いゆえに、削ぎ落されざるをえなかった部分がある。

 

ひとつ例をあげよう。「懲らしめられた道化 Le pitre châtié」の第2連の原文は次のようになっている。

De ma jambe et des bras limpide nageur traître,

À bonds multipliés, reniant le mauvais

Hamlet ! c’est comme si dans l’onde j’innovais

Mille sépulcres pour y vierge disparaître.

これを柏倉は、次のように訳している(22頁)。

足と両手で幾度も跳ねる透明な泳ぎ手

裏切り者の私は、陰険なハムレット役などまっぴらだ!

無垢のままでそこに姿を没するようなもの。

すぐ気がつくのは、4行を3行に圧縮しているところ。原文は、マラルメによくあるように、文が脱臼している。フレーズがどこで切れるのか、フレーズがどこと結びつくのか、危うい状態にある。いくつかの可能性がただよっており、どれかひとつに決断するのに十分な証拠をマラルメは自身のテクストから慎重に消し去っているかのようだ。

3行目の行またぎのHamlet!の箇所までが便宜上この連の第1文に相当するが、この文には主動詞と呼べるものがない。reniantは分詞だからだ。通常なら、分詞の主語は主文の主語と一致するものだが、ここでは主文自体がないため、renierの主語が浮いてしまう。nageur (泳ぎ手)が候補として浮かんでくるが、nageurは無冠詞で投げ出されており、かつ、traître(裏切り者)という名詞とコンマもなく連続的に並置されており、これをどう捉えるのかという問題も発生するし——いや、これは、普通に形容詞の「裏切りの」と解するほうが妥当かもしれない——、フランス語で形容詞は名詞の後に置かれるのが普通だが、limpide(澄んだ)は前に置かれている(limpideは名詞の前に置かれるタイプの形容詞ではない)。

この泳ぎ手、裏切者は「わたし」をさすのだろうか。De ma jambe et des brasは、足と腕が「わたし」のものであることを告げているし、わたしではない人間が、わたしの足や手を使って泳いだり裏切ったりするのは、想像しづらいところではあるが、その可能性を排除すべき決定的な証拠は、やはり、テクストには存在しないようにも思う。

mauvaisは、英語なら、poorやbadの意味だが、Hamletの何を指してmauvaisと言っているのかわからない以上、ここはなにかしらの解釈的踏み込みが必要になるだろう。

そう考えていくと、

足と両手で幾度も跳ねる透明な泳ぎ手

裏切り者の私は、陰険なハムレット役などまっぴらだ!

という訳は、原文の曖昧さを完全に切り捨てることなく、日本語としても読めるように、工夫をこらしたものにはなっている。とくにnageur traîtreのコンマなしの連続は、原文であればスペースが開いており、連続でありながら、西洋語の筆記法の必然によって、わずかな隙間があり、それが読者に息継ぎの暇を与えているわけで、そのような隙間を行変えによって作り出すことで、「泳ぎ手」と「裏切り者」がイコールで結ばれるものなのか、そうでないのかを、意図的に宙吊りにする効果を作り出している。

また、原文では、「わたし」という一人称は、「足と手」にかかる所有代名詞だったわけだけれど、それを「裏切り者の私は」と主格に移し替えることで、原文の宙ぶらりんな分詞構文を、うまくさばいている。

「陰険な」という意訳も、日本語で読むぶんには、うまい移し替えだろう。「ハムレットは陰険なキャラクターだっただろうか?」とこちらの疑問を挑発するが、同時に、なんとなく納得させられる訳でもある。

残りの行については、言葉をあえて省略しているようだが、その意図はよくわからない。

ともあれ、柏倉の訳では、原文の不可思議さが、あまりに「理解可能」なものになってしまっている。それがよいことなのかわるいことなのかはわからない。日本語読者としては歓迎したいが、これを、柏倉の解釈=パフォーマンス以上のものとして捉えるのは危険だろう。絶対的な「正解」ではない。この翻訳は、やはり、できるかぎり「理解可能」な方向に引き寄せたひとつの試みと受け取るべきところだろう。

 

ざっくり読んで浮かび上がってくるテーマ、再帰的に取り上げられる主題系を、以下に、順不同で列挙してみる。

出発に関するもの。これは海や波と結びつく。

倦怠感に関するもの。これはため息や孤独と結びつく。

神話的なテーマ、古代的なテーマ。しかし、マラルメが興味を持つのは、偉大な英雄や大いなる神々というよりも、陰と肉のある、ある意味ではいかがわしいキャラクターたちである。ヘロディアス。牧神。

しかし、それとは相反する、光り輝く神々しさという別のベクトルもある。飛翔や天上に向かう。

死と墓。ゴシック的なテーマ系。これはマラルメが敬愛したエドガー・アラン・ポーにつうじる色目だ。黒、不吉さ、重々しさ。くぐもったもの。

天使的なテーマ。というよりも、翼につうじる主題系。

動物に関するもの、とくに鳥。白鳥。

植物に関するもの。花々。

色に関するもの。白がやはり特権的なものだろう(白紙のページ)。しかし、青もまた重要な色で、とくにazur。それは空に結びつく色でもある。まったく別の方向性としては、黄金色だろうか。

冬に関するもの。氷。マラルメの詩が実際に使う色言葉はそうでもないが、その手触りは寒色系な気がする。澄み切った、硬質なもの。

もちろんマラルメの詩は複雑で豊饒で、このような適当なリストでカバーできるものではないし、読むたびに別の主題を見出せるものではあるけれども、今回読んでみて思ったのは、マラルメの詩の色合いや手触りは、わりと限定されたゾーンになるのではないかという点だ。

肉体に関するもの。胸、唇、髪、肌。血。男性的というよりも、女性的な肉体が対象化されているように思う。そこから派生するテーマ群――処女、無垢。

 

テーマが広いことは、詩人の良し悪しとは必ずしも関係ない。ボードレールも、比較的狭いテーマ系から驚くほどたくさんのモチーフを引き出している。マラルメにもそうしたところがあるように思うし、ボードレール的といいたくなるような「腐敗した」、「官能的な」――フランス語で言うところのsensuelな――テーマをいくつも採り入れているが、ボードレールがそれにかなりコミットしていたのに比べると、マラルメの扱い方はもうすこしクールであるように感じる。ボードレールにとってデカダンスは彼自身の生存にかかわるものだったかもしれないが、マラルメにとってはそうではないように感じるのだ。マラルメにとってのデカダンスはあくまで詩にかんするものであるように思われる。