うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

音楽の生命力を表出させる:演奏者としてのベンジャミン・ブリテン

ベンジャミン・ブリテンの指揮からあふれ出す強い説得力の源にあるのは、流れていくものである音楽の生命力だ。すべてが生き生きと脈打っている。すべてが動き、前に進んでいく。音楽に死んだところがない。

あまりにあたりまえのことではある。しかし楽曲構造を透かし彫りのように強調しようとすれば、音楽は静止画の連続のように勢いを失ってしまうし、軽視しすぎると、かたちが崩れてただ流れているだけになってしまう。

人為的な自然、それはもしかすると、天才的な芸術家の究極的なあり方かもしれない。霊感に突き動かされ、作品が自然と流れ出していくるような状態。

ブリテンの指揮する音楽がスッと入ってくるのは、作為性がないからだろう。わざとらしさがない。特定のパートが強調されていたり、特定の響きが増幅されていたりということがない。テンポが際立って遅かったり、リズムを際立って強調したりということがない。一聴してすぐるにわかる解釈的特異性がない。

しかし注意深く聴くと、丁寧に作り込まれているのがわかる。おろそかになっている部分がない。神経質な注意深さではない、おおらかな繊細さがある。理詰めでありながら最終的な音楽の手綱を握るのは直観であり感性であるかのように。

 

1913年生まれのブリテンは、いわゆる20世紀の大指揮者たちと同世代であるけれども、その音楽的感性はずっとモダンであるように思う。もちろん古楽器と通底するような軽さがあるわけではないし、響きの豊饒さや朗々たる流れはどちらかというと前世紀的なものを引きずっているような気もするけれど、同時に、演奏スタイルの流行り廃りとは別のところで音楽を作っているような印象もある。それはまちがいなく、ブリテンが作曲者でもあるから、というより、指揮もする作曲家であるからだろう。

 

とはいえ、指揮者ブリテンはどこまで作曲者ブリテンと地続きなのだろうか。

1913年生まれのブリテンは、1908年生まれのメシアンとそこまで歳が違うわけではないけれど、調性和声を作曲言語の枠組みとしていた点で、ブリテンは20世紀後半の「モダン」な作曲家のなかでは、反動的とは言わないにせよ、やはり時代遅れな芸術家ではあっただろう。

20世紀前半におけるヤナーチェクの立ち位置に近いような気がする。自己模倣的な作曲言語、執拗な反復、諧謔的な木管のトーンとこれ見よがしな金管の咆哮、垢抜けない旋律。

端的に言えば「ダサい」音楽だ。このうえなく洗練された手法を、とびぬけた知性が使いこなしているというのに、最終的に出来上がったものは、どうしようもなくローカルな雰囲気をプンプンにただよわせている。

ブリテンの作曲は、器楽曲であれオペラであれ、歌曲であれオラトリオ的なものであれ、どこか臭みがある。気に入らない人には生理的に受け入れてもらえないような、独特の風合いがあるのだ(ブリテン1906年生まれのショスタコーヴィッチの曲を振っているのはよくわかる気がする)。

 

だというのに、なぜか演奏者ブリテンには、そのような体臭にも似た独特の風合いがない。彼の指揮する音楽から聞こえてくるのは、ブリテン自身の音楽というよりも、ブリテンというフィルターによって生き返る音楽そのものである。

ブリテンの自作自演が依然として越えることのできない絶対的地位を占めているのも当然だろう。ブリテンの音楽は、精度でも色彩でもなければ、情感や概念でもなく、生命力の流れゆく強度の表出そのものなのだから。誰にも真似のできない、彼自身の生命の現れなのだから。

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