うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

匿名的なオリジナリティ:生理的に快感なデゾルミエールのノリ

ロジェ・デゾルミエールがどういう指揮者だったのか、どうもよくわからない。ブーレーズはとあるインタビューで、50年代に現代音楽をきちんと触れる指揮者はほとんどいなかった(だから自分で振り始めた)と回想しつつ、そのような稀有な例外的存在のひとりとしてデゾルミエールを挙げていた。なるほど、たしかにデゾルミエールメシアンの『トゥーランガリラ交響曲』のフランス初演(1950年7月25日、エクサン・プロヴァンス音楽祭)の指揮者であるし、ブーレーズの『水の太陽 Le Soleil des eaux』を振った録音もある(どちらもINAから出ている)。

しかしデゾルミエールの音楽から感じるのは、デジタル的な精度ではなく、アナログ的な感性だ。彼の残した商業録音は、チャイコフスキーであったりフランスの6人組であったり、いまひとつ捉えどころがない。

ひとつ確実に言えるのは、デゾルミエールが卓越したリズム感を持っていたという点である。彼の演奏は、どれも、聞いていてとても心地よい。録音が古いし、そのせいもあっておそらく実際以上に色彩感に乏しいモノクロな音に聞こえるけれども、ぶっきらぼうなまでの音の打ち込みに、突出した時間的なセンスを感じる。チャイコフスキーのような縦のノリがはっきりしている音楽の歯切れのよさは比類ない。デゾルミエールと『くるみ割り人形組曲のキレときたら。これこそバレエのための音楽だ。

 

しかしその一方で、ドビュッシーの『パルジファル』にほかならない『ペレアスとメリザンド』の世界初録音もある。ヴィシー政権時代に完遂されたこのフランスオペラの録音の魅力が、ジャック・ジャンセンやイレーネ・ヨアヒムーーブーレーズの『水の太陽』の初演者のひとり――といった歌手たちの美しいディクションにあることはまちがいないけれど、同時に、デゾルミエールの決して停滞することのない、しかしそれでいて、ただ突進してくだけでもない自然に劇的な音の流れもまた、この記録を録音史における事件にしている一因であることも、間違いない。

音が気持ちよく流れていく。旋律を存分に歌わせるタイプではないけれど、リズミックな流動のなかで流体的な横の流れを作ることができるタイプであったことは、間違いない。

 

そこまで「音」がピタッと揃っているわけではない。にもかかわらず、彼の録音を聞くと、音楽の揃い方に得も言われぬ愉悦を覚える。

デゾルミエールは、何かのための音楽という副次的なジャンルを、自律可能なレベルにまで高めながら、それを僭称するようなことは絶えてなかった。まるで裏方の存在であることに、裏方の存在であり続けることに、何の葛藤もないかのように。

無私のリズム。特異な無個性。匿名的なオリジナリティ。彼のリズム感の生理的な快感は、おそらく、乗り越え不可能なものである。

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