エリアフ・インバルは音楽を充実させる。マニアックな版でブルックナー交響曲全集を作ったり、マーラーやベルリオーズといった大規模な大作系の作曲家をコンプリートしたりと、ニッチなレパートリーを網羅的に録音しているわりには、細部を不自然なまでに強調するようなことはしない。インバルは細部を突き詰めることで、全体をふくらませる。だからインバルの音楽は異形の演奏にはならない。
彼の音楽が目指すのは、きわめて真っ当な方向だ。内声を充分に響かせ、バスの声部の輪郭をはっきりさせる。リズムもテンポも、特異ではない。とびぬけて速くもなければ、とびぬけて遅いというわけでもない。とりたてて運動性が高いわけでもないし、スローモーション的な解像度の高さを狙っているわけでもない。悠揚たる流れが基本にあり、そのなかで、然るべき細部がくっきりと浮かび上がってくる。
インバルの演奏は表情が濃い。旋律の歌いまわしのせいではないだろう。音色に特別なきらめきやかがやきがあるせいでもない。にもかかわらず、音楽の輪郭がせりあがり、こちらに迫ってくる。密度の高い重い音が、たしかな存在感をともなって、こちらの腹の底にまで響いてくる。音のたしかな手触りを感じる。
とはいえ、80年代の録音から感じるのは、むしろ、薄味の無色透明の演奏だ。Denonのワンポイント録音のせいもあるのだろうけれど、音が遠く、客観的というよりも傍観的といいたくなるよそよそしさがある。
インバルの音楽が充実し始めるのは90年代の録音からである。チャイコフスキーの後期交響曲、シューマンやブラームスの交響曲全集では、音が内側からふくれあがり、はちきれそうなほどになっている。
その意味でインバルは巨匠的なところがある。若い頃の演奏よりも、年を経た後の録音のほうが秀でているという意味で。
インバルの経歴はいまひとつ捉えどころがない。名前からもわかるようにユダヤ系で、イスラエル出身。バーンスタインに見出されてパリに学び、チェリビダッケに師事しているけれども、表面的にはそのどちらにも似ていない。しかし、あえて類似点を指摘するとすれば、アンサンブルの呼吸感だ。
出た音を外から揃えるというよりも、音の出し方のほうに力点が置かれている。奏者の呼吸をシンクロさせることで、内から音楽を同期させている。
インバルの演奏はどこはアドルノの「晩年様式について」――興味深いことに、このエッセイは1934年に出版されているから、執筆当時のアドルノはまだ30歳をすこし過ぎたぐらいで、彼自身は「晩年」とは程遠いところにいたのだった――を思い出させる。
インバルの演奏の充実は、円熟や調和ではないような気がする。そこではまさに、多様なものが、亀裂をともなって、剥き出しのまま提示されている。洗練ではない。磨き上げられているわけでもない。素材感のある無加工の音が生々しくぶつかり合う。音がぎゅっと凝縮してはいるが、混ざり合ってはいない。
溶け合わない音は、どこか不器用だ。晩年のセザンヌの絵画のように、すこし乱暴で、技術不足であるかのような印象すらある。しかしこのゴツゴツとしたテクスチャーは、怖ろしいまでに充実している。
輪郭は硬いのに、弾力的な肌理がある。剥き出しなのに、すさんだところがない。折り目正しい枠があるにもかかわらず、ひどく自由だ。そしてそれが指揮者の自由を生み、奏者の自発性を誘発するのだろう。インバルのハミングが、その現れであるように思う。抑えようとしても漏れだしてしまう表出、それがインバルの音楽の根底にある。