コリン・デイヴィスの愚直なまでの生真面目さには生理的な心地よさがある。縦の線が気持ちよく揃っている。何が何でも合わせようとして音を置きにいったのではない。結果的にたまたま音がシンクロしているかのように聞こえるぐらいに、自然に、音のインパクトが同期している。
簡単なようで極めて難しいことだ。弦楽器、管楽器、金管、打楽器は、それぞれ、音を出そうと頭で思ったときから実際に楽器から音が出るまでの時間が、微妙に異なる。楽器奏者の生理的なズレがあるはずだ。にもかかわらず、デイヴィスの演奏は、どの時期の録音を聞いても、ピシッと縦線が揃っている。
多様な音がひとつの音塊として、ずっしりした生々しい音の集合として、こちらに迫ってくる。きわめてダイナミックに、きわめて自然に。
デイヴィスの弦楽器の統率力が突出しているからこそ、彼がもともとはクラリネット奏者であったという事実に、ひどく驚かされる。なるほど、たしかに、デイヴィスの音の合わせ方は、マリナーのような生粋の弦楽器奏者のそれとは大きく異なるけれど、それは、生粋の指揮者には不可能な、地に足の着いた手堅さがある。奏者に寄り添い、奏者と同じ地平から、全体をひとつの音にまとめ上げていく職人芸がある。
デイヴィスの音楽には、直感的な心地よさがある。職人的な安心感がある。しかし、さして裕福とはいえない家庭に生まれ、当時の指揮者教育に必須であったピアノ技術がないがゆえに、指揮法を公式に勉強することさえできなかったデイヴィスが国際的な名声を勝ち取ることができたのは、デイヴィスの音楽が基本的に歓びに充ちたものではなかっただろうかという気もする。
デイヴィスの音楽からは、音そのものが聞こえてくる。和音は和音であり、旋律は旋律である。そこには深遠な哲学であるとか、ラディカルな読み替えのようなものはない。だからデイヴィスの録音は耳目を驚かすことがない。
スタンダードなのだ。おそろしくダイナミックな、当たり前のようでいて決して他には見つからないスタンダードではあるけれども。
デイヴィスの演奏はロンドン交響楽団の本拠地であるバービカン・センターで聞いたことがある。卒業旅行でイギリスとスペインに行くことになり、クラシック音楽にまったく興味のない友人たちを、飛行機がヒースロー空港に着いたその日の夜のコンサートに、無理やり引きずるようにして連れて行ったのだった。ベルリオーズの『ロミオとジュリエット』だった。その当時、ちょうどLSO Liveが発売されだしたときで、ホールが残響に乏しいことは頭では知っていたけれど、ここまで残響のないホールだとはさすがに思っていなかったのだけれど、デイヴィスとLSOは、そのような響かないホールの壁そのものを振動させるような演奏をやってのけた。ホールが鳴るということの意味をあそこまでわからせてくれた実演は、あれ以来、聞いたことがない。
デイヴィスの録音に派手さはない。解釈的な面白みも薄い。他の演奏では聞こえてこない旋律やリズムパターンが浮かび上がってくることもない。普通なのだ。
しかし、にもかかわらず、デイヴィスの録音ほど、音楽の内的な強度がありとあらるところで凝縮し、音が内側から昂揚して音楽になっていくものは、稀だ。
愚直な生真面目さを突き抜けた向こうにある折り目正しい快楽、そのような不思議な音楽の歓びが、デイヴィスの演奏の根底にある。