うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

非常勤講師観察記断章。初回の不器用な適当さ

非常勤講師観察記断章。初回の不器用な適当さ。一回目はどうやっても不器用な感じがする。自己紹介がとくにそうだ。気恥ずかしいのもあるし、何を聞かせればいいのかわからなくて、途方に暮れてしまう。その結果、おかしなふうに投げやりな名前だけの前置きでいきなり授業に入ってしまう。自己紹介よりもさきに教科書の確認をして、授業内容と担当講師の関係性を逆転させてしまう。重要なのは何を教わるかであって、誰が教えるかではないかのように。しかしこのやるせないほどの適当さを、いい加減さの表明ではなく、慎ましさの裏返しだと思ってはくれないだろうか。

最初の一手(身体)。クラスルームの身体技法を会得させなければならない。ディスカッションが出来ないのは、意見を持っていないという本源的な問題もさることながら、ディスカッションのためのインフラストラクチャーやディスポジティフが欠けているせいも多分にあると思う。だから、話し手は誰に向かって何のために話しているのかわからなくなってしまうし、聞き手は何をどう聞くべきなのかがわからず、ともにまごついてしまう。第一週はこのあたりを物理的に攻めてみた。ディスカッションをするときは体の正面が相手と向き合うようにする(必要とあれば場所を移動し、机や椅子を動かす)、誰かが話すときは必ずその方向に体の表面を向ける、黒板や講師を見つめるのでも眼前の虚空に視線を彷徨わせるのでもなくクラス全体を見渡しながら話す、聞くときは作業を中断して聞くことに集中する、誰かひとりがつねにグループの代弁者とならないように発表は持ち回りとする。基本的なことといえば基本的なことだが、これで、だいぶディスカッションがそれらしく動き出す。

最初の一手(価値転換)。発表者となることは「罰ゲーム」ではなく「特権」であるとほのめかしてみる。学生たちがじゃんけんで発表者を決めようとしているのを見かけ、「負けた者」ではなく「勝った者」が発言者となるべきだと提案してみる。注目を集められること、それは素晴らしいことであり、決して忌避されるべきものではないはずだ。これは難しいことだと思うし、あまりに大きな変化かもしれない。しかしこうしたドラスティックな転換は、初回だからこそ可能な手だ。

タブラ・ラーサ。クラスのムードをセットすること、それは最初の数週間にしかできないことであるように思う。もちろんあとでも多少の変更は効くが、最初のうちならまだ、こちらの介入という「上から」の手段を行使できる。しかし時間がたてばクラスは内在するダイナミクスに従って自ずから秩序を形成してしまうし、そのように生成されたムードは、積極的調和ではなく、消極的調和である。

緩慢さと停滞さのごった煮。そうしたまどろみはたしかにどこか心地よいし、安心させてくれるものではある。しかしその安心感はいわば下降(よくて現状維持)の快楽であって、上昇の至福ではない。言われたとおりに。学生にしてみればこういうことは耳慣れない指示だろうし、初見のことであると思う。しかし、丁寧に指導すれば、これがやすやすと出来てしまう。それが県立大学の良いところでもあり、悪いところでもある。従順さは奴隷気質と紙一重だし、ここに「みんなと同じぐらいでいたい」という平均願望が混ざると、まったく手に負えないものになる。手がかからなさすぎて逆に手に負えないのだ。ここで手がかからないというのは、手ごたえがないというのと同義であり、抵抗感のなさは抵抗精神の不在の証左である。「従え」ではなく、「従うな」という命令を下すべきかもしれない。

教育としてのダブルバインド。こちらが言ったことを言ったとおりにやっている相手を、こちらの言いなりになりすぎだと叱りつけるのは、古典的なダブルバインド状況を作り出すことにほかならない。しかし、そうした不合理で不条理な何かが、教育には必要なのかもしれないという気もする。自由になるには隷属=規律を経由しなければならないというのは、あまりに俗っぽい弁証法的言い回しで、だからこそ疑わしい。しかし芸術についていえば、技術=伝統の習得という徒弟期間を経ることなしには、真の進展は生まれてこないようにも思う。日本近代文学における古典性の欠如を丸谷才一が嘆いていたのも、調性や古典形式をあたかも自ら発明したかのように自由に身にまとう後期ベートーヴェンアドルノが讃えていたのも、そういうことだろう。ただ自由であろうとすることは、意図せざる自発的パターンに絡め取られることであり、それがケージの偶然性にたいするブーレーズの反論ではなかったか。「自由になれ」というスローガン自体が抑圧的であり、「自由」から自由にならなければ自由はない、それがシュティルナーフォイエルバッハ批判であった。しかし自由になることから自由になる、という論法は無限後退を引き起こす、とニーチェは言うかもしれない。「「「自由になる」ことから自由になる」ことから自由になる」ことから自由に……この悪循環を断ち切るのは、論理でも必然性でもなく、恣意的で偶発的な、いい加減で適当な何かでしかないような気がする。

というふうに無理矢理に考えをこじつけて、第一週の不器用な自己紹介(の不在)を正当化するが、教育に何かしらのダブルバインドが必要であり、その克服は必然によるものではないというのは、案外間違っていないように思う。