うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。Nessun Dorma。

特任講師観察記断章。Nessun Dorma。授業中に夢の世界に遠征中の学生を見ると、プッチーニのあの有名なアリアの出だしが耳にこだまする。しかし、「誰も寝てはならぬ」という命令とも願望とも言いがたい言明はどこまで妥当なものなのだろうかと思う気持ちもある。「寝るな」という命令にはまだ理があるとしても、「誰も」というのはさすがに高望みがすぎる気もする。

眠くなるのは生理現象だから仕方ない部分がある、どれだけ気を強く持っても寝てしまうことはある。学生たちにはよくそう言っている(寝てもいいと伝えるためではなく、自由意志の行為であるスマホ利用は厳罰をもってのぞむと伝えるためにそう言っているのだが)。そうである以上、寝ている学生を見てイラつくのは、ますます自分勝手であるし、自己矛盾ですらある。いちおう認めておきながら、実際にそれを目撃して憤るというのは、ダブルバインド状況を学生たちに押し付けることになる。

しかし、そうだとしても、寝ている学生の姿を見るのが愉快ではないことに変わりはない。かりに寝ている理由が全面的に学生側にあるとしても。こちらが誠意と熱意をこめて行っている授業の最中に心地よく寝入っている姿を見ると、無視されたような気がするというか、否定されたような気がする。心の深いところにある繊細な部分を傷つけられたような感じがするし、夢に負けたのかという悔しさもある。複雑な、割り切れない気持ちがある。

けれども、考えるべきは、教える方の心情的な満足ではないだろう。中規模以上のサイズの講義クラスで誰も寝ない授業が可能なのか、と考えてみるべきだ。専門科目で、学生が自主的に選択している授業なら、理想的には可能かもしれない。しかし、必修科目で、学生が嫌々ながら履修している授業の場合は、どうだろうか。そうした学生のなかにさえモチベーションを芽生えさせるのがよき教師の役目だというのは、たしかに正しい。しかし、そこまで悠長なことをする余裕がどこにもないというのが、いまの大学の現状だろう。クラスサイズを小さくするための人材も資金もないし、学生はすでに手一杯の生活を送っている。教える側が互いに共同することで、単純な総和以上の余剰価値を生み出すというのが理想的なシナリオかもしれないが、現状ではやはり理想論にとどまるだろう。

寝ているのは一部の学生でしかないというのも事実ではある。寝入っている者と眠りに落ちかかっている者を合わせ、いちばん多く見積もっても、最大で3分の1くらいで、過半数には達しない。見込みのない者を切り捨てるというのも、ひとつの選択ではあるし、おそらく「賢い」選択ではあるだろう。しかし、眠っている姿が教室のあちこちにある情景は、なんというか、美しくない気がする。