うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20200104 Day12(最終日) 帰国便を待つあいだにエジプトのビールStellaを啜りながら綴られた断章的フィナーレ。

実在の響き、または鳴り響くクラクション。聴覚的な意味でいちばん驚かされたのは車のクラクションだ。最初は威嚇なのかと思ったが、ずっとこのけたたましい音を聞いていると、これはこれで機能的な騒々しさなのだと思えてきた。ここにもノイズ的で即興的なコミュニケーションがある。ドライバーは、交通法規という抽象的なものに従って運転するのではなく、他のドライバーという存在と競合しながら共存している。クラクションは存在証明であり、実在の響きなのだと思うことにした。

言葉のわからなさ、または視認できない文字。視覚的な意味でショックだったのは、アラビア語が記号としてすら認識できないということだ。もちろんこれは自らのアラビア語の無知を恥じ入るべきところではあるのだけれど、ここまでわからないままであるとはさすがに予想していなかったし、ここまで英語では通用しないことを思い知らされるとは予想していなかったけれども、この裏切られた予想は心地よいものでもあった。わからないままであったにもかかわらず、アラビア語という文字の美しさにはずいぶん惹かれていった。アラビア語を書けるようになりたいと思った。

ラテン語のなさ、またはアラビア語の聖書。文化的な意味でインパクトがあったのは、ギリシャ語のアルファベットやアラビア語で綴られた聖書だ。古代ギリシャの知見がアラビア語をとおして西欧に逆輸入されたことは、世界の知識として知っていたにもかかわらず、それを目の当たりにすると、なぜか驚いてしまう。エジプトの歴史的重層性のことをわかっていなかった。いや、単なる知識として覚えていたことと、それを理解のレベルにまで落とし込めていなかったこと、そのあいだに開けている亀裂の広さと深さを思い知った。

無邪気な差別、または個人的敵意なきカテゴリー的悪意。エジプト人しかいないようなモールを好奇心から散策していたとき、何とも言いがたい視線を感じた。フードコートに行き、ただひとめぐりして去っていくと、メニューを持って寄ってきた数人の若者たちから、何とも言えないディスりの舌打ちをされた。これを「差別」と呼ぶことはためらわれるけれど、ここで向けられた好奇心と地続きの悪意は、「わたし」というシンギュラーな個人ではなく、「わたし」の単なる一属性にすぎない「日本人」というカテゴリーにたいして向けられたものであったように思う。そしてそれはもしかすると、「黒人」差別や「女性」差別と似たたぐいのものなのかもしれない。あの嫌な居心地は進んで味わいたい代物ではないとはいえ、それを体感できたのは、貴重な経験だったように思う。

 

ここからは補遺的な観察を。くわえタバコがここまでまだまかりとおっているとは思わなかった。喫煙が容認されているのはわからなくもないが、くわえタバコはまた別の問題だと思うのだが。

敷物を好むのは、もしかすると、エジプト的というよりはアラブ世界に共通のことなのかもしれないが、とにかく敷物がマストアイテムであるように思う。アレクサンドリアに泊まった安宿でさえ、ベッド足元やベッド脇に敷物があった。モスクの床は敷物で埋めつくされている。それはもしかすると、一枚の絨毯ですべてを覆う代わりに、小さな敷物を敷き詰めているだけなのかもしれないけれど、敷物がお祈りの道具でもあることを思うと――お祈りのさいに跪くから――敷物には単なる生活必需品以上の意味合いがあるのかもしれないけれど、たとえそうだとしても、敷物にたいする愛のようなものがなければ、それを家の床にまで敷き詰めようとは思わないようにも思う。

エジプトでオフィシャルに使われる英語はブリティッシュ・イングリッシュだ。日付も英国式(日/月/年)だし、階数の数え方も英国式(地階、1階、2階…)だ。とはいえ、街で話されているカタコト英語はそうでもない。アメリカ英語とも言いがたいし、エジプト的な(というかアラビア語的?)訛りのある英語になっている。

頭に載せるか肩に載せるか。エジプトでものを運ぶとき、女性は頭のうえに載せて背筋を伸ばして歩き、男性は肩と首のあいだに載せて背中を丸めるように歩く。本当の理由はわからないが、ふと気づいたのは、女性はスカーフを待ち針のようなもので留めている(しかも、スカーフの襞をそうしているだけではなく、スカーフと上着までをそうやって留めている)ので、肩に荷物を載せるとスカーフがズレて厄介なことになるからかもしれない。

5倍の価格差。美術館や博物館のエジプト人価格と非エジプト人価格の差はだいたい5倍のようだ。400と80、100と20というように。

Made in Egypt。これは外貨の問題や国内労働力の安さの問題のせいなのだとは思うけれど、エジプトで売られている使われているものの多くはエジプト産であるように見えた。たとえばタオル。安宿でも、高級宿でも、タオルはエジプト産である。スーパーでわりといろいろな食品を見たけれど、エジプト産が多い。

穴があれば捨てる。エジプト人は自らのスペースを綺麗にする傾向にあるけれど、その一方で、パブリックスペースの清潔さや清浄さにたいしてわりと無頓着なところがあるようにも思う。街でも遺跡でも、穴があればゴミがある。熱心にショーウィンドウを磨いているところ、丁寧に道路を掃いているところを見るにつけても、この性向は不思議でならない。

 

耳にはまだクラクションのかん高い音と、粗悪な拡声器から流れてきて街中に反響する礼拝を告げるアザーンの旋律がこだましているし、書くこと、書くべきこと、書きたいことはまだ後からわいてきそうな気もするけれど、搭乗開始時間まであと30分。ここでこの滞在記とも旅行記とも言いがたい観察記断章を断ち切ることにする。