うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ポピュリズムを政治的に表象するために:シャンタル・ムフ、山本圭・塩田潤訳『左派ポピュリズムのために』(明石書店、2019)

陳腐なことを言っているように聞こえる。

私が強調しておきたいのは、民主主義を再生するためのヘゲモニー闘争は、国民国家のレベルで開始する必要があるということだ。多くの権限を失ってしまったものの、にもかかわらず国民国家はいまだ、民主主義と人民主権を行使するための重要な空間のひとつである。民主主(96頁)義を根源化するという問題が最初に提起されなければならないのは、ネーションのレベルにおいてである。国民国家とは、新自由主義的なグローバル化がもたらしたポスト・デモクラシーの影響に抗するための、集合的意志が構築されるべき場所である。この集合的意志が強固になってはじめて、別の国で生じた類似の運動との連携を生産的なものにすることができる。新自由主義との闘いに、ネーションのレベルだけでは勝利できないことは明らかである。(97頁) 

まずはネーションの内部でやるべきだ、多数派を形成し、民主主義を立て直そう、そして国際的に連帯してネオリベラリズムに抗おう、というわけだ。このシナリオはあまりにも理性主義的すぎるし、どこかヘーゲル的な匂いもする。

 

ヘゲモニー論+情動論

しかしムフはこれに続けて、国民国家のなかで蠢いているさまざまな感情=情動の問題をクローズアップする。これは理論的にいえば、ムフたちのヘゲモニー論はあまりに言語的=言説的であるとする「情動論的転回」論者たちにたいする返答でもあり、自らの理論の発展的修正でもあるのだろう。

現代における民主主義の問題は、理性や合理性だけの問題ではない、リビドーの問題――地元や地域といった身近で具体的なものにたいする愛着、さらにいえば、そうした肌感覚を「国家」とか「国民」のような普遍的で抽象的な概念よりも重視する立場であると言っていいかもしれない――でもあるのだ。ムフはあきらかに理性の領域と理性以外の領域の両方を重視しているし、だからこそ、ここにフロイトの集団心理論、スピノザのコナトゥス/アフェクト論、ウィトゲンシュタイン言語ゲーム論が接合され、グラムシで締めくくられる(98-103頁)。 

政治において感情が果たす役割、および感情の動員方法を認識することは、より効果的な左派ポピュリズム戦略をデザインするためにも必要なことだ。このような戦略は、グラムシが「感覚(フィーリング)‐情念が了解となる有機的な結合」を求めるときの彼の導きにしたがうべきである。左派ポピュリズム戦略は「常識(コモンセンス)」にもとづく様々な考え方に働きかけ、人々の感情に届く方法で訴えかけなければならない。この戦略は、呼びかける人々の価値観とアイデンティティとも調和し、人々の経験の様々な側面と結びつかなければならないだろう。人々が日常生活のなかで直面している問題と共鳴するような呼びかけを行うためには、彼らがどこに暮らし、何を感じているのかということから出発する必要がある。彼らを非難する立場から抜け出て、未来の展望と希望を示さなければならないのだ。(102-3頁) 

ムフは現代における情動的なものの問題性や急務性をはっきりと認識している――「この領野を右派ポピュリズムに明け渡すことはあまりにも危険だろう」(97頁)――けれども、この昇華されざる感情をどうするのかということになると、右派とはちがう左派的な戦略をどう作り上げるかということになると、ムフの提案はやはりどことなく陳腐に聞こえる。

ナショナリズムの閉鎖的で防衛的な形式を促すといった右派的な例に倣うということではない。そうではなく、国民的(ナショナル)な伝統の、最良でいっそう平等主義的な側面であるパトリオティックな同一化へと人々を動員することで、感情の別のはけ口を示すのである。(97頁) 

悪しきナショナリズムではなく、良きパトリオティズムを、というわけだ。国民国家主義ではなく、郷土愛を、というわけだ。

 

ポピュリズムは政治的に表象されなければならない

私が強調したのは次のことだ。すなわち、左派ポピュリズム戦略がめざすのは「ポピュリズム体制」の確立ではなく、自由民主主義の枠組みにおいて、新しいヘゲモニー編成の確立に向けた政治的構成を仕掛けるための、一個の集合的主体の構築にほかならない。(107頁)   

ポピュリズムはそのままでは政治体制にならない、というのがムフの基本にあるように見える。これはラディカル・デモクラシーを推す立場と矛盾しているようにも聞こえるのだが――いや、ラディカル・デモクラシーと直接民主主義Direct democracyは別物であると理解すれば、これはとくに矛盾しているようには聞こえないか――、ムフが言うのは、現代の間接民主主義という政治システムにおいて、なんらかの表象(象徴的なものであれ、具体的なもの=候補者や政党であれ)なしには、実効性のある政治プログラムには結びつかない、ということなのだろう。 

 

革命的改革主義、または経済的リベラリズムと政治的リベラリズムの別の接続

ムフは方法論的に2つのレベルを峻別する。倫理‐政治的原理のレベルと、ヘゲモニーのレベルだ(66頁)。それはメタとベタと言ってもいいかもしれないし、闘技場という場と、闘技場という場で行われる競技と言ってもいいかもしれない。

ムフが明確に述べているように、左派ポピュリズムの戦略は、原理レベル(立憲主義自由民主主義、多元主義)の転覆ではなく、ヘゲモニー・レベルにおける再編成を目指す(67頁)。トランプに例えるなら、配るカードの種類(原理)は変えない、しかし配られたカードの組み合わせ(ヘゲモニー)は変える、ということだ。それゆえ、左派ポピュリズム戦略は、「革命」のようなラディカルな切断を目指しはしない。「革命的改革主義」(ジャン・ジョレス)、それが左派ポピュリズムの戦略に与えられる名である。

別の言い方をするなら、左派ポピュリズムは、資本主義と民主主義と自由主義を、いまあるのとは別のやり方で繋ごうとする試みである。ネオリベラリズムは、資本主義(経済至上主義)と自由主義(個人の自由最大化)を結びつけるが、民主主義(平等の理念のうえに築かれる集合的意思決定)とはあまり繋がらない。右派ポピュリズムは、民主主義も自由主義もある程度まで退けつつ(集合的価値観や階級制の復興)、資本主義は受け入れるわけで、その意味では右派ポピュリズムネオリベラリズムと共犯関係にあると言える。左派ポピュリズムは、経済至上主義を批判しつつ、自由主義(個人の自由)と民主主義(人民の平等、「人民People」という集団的パラーメータ)を和解させることを試みる。表面的に見れば、左派ポピュリズムには、ネオリベラリズムや右派ポピュリズムとオーバーラップする部分がある。しかし、根本的なところでは、左派ポピュリズムは両者とはっきり対立する。

ムフは左派にある3つの政治プロジェクト――それは相互に断絶したものではなく、連続的なものである――を、純粋な改革主義、ラディカルな改革主義、革命的な政治と区別する(68頁)。ひとつめの純粋な改革主義が「単なる」改革主義であり、カードの組み合わせを試みない(ヘゲモニーを転覆しない)ものであるとすれば、みっつめの革命的な政治はカードそのものを変えてしまおうという革命主義(レーニン主義アナキズム的な拒絶、叛乱)であり、当然ながら、ムフが「左派ポピュリズム Left Populism」戦略として推すのはふたつめの路線である。

穏健さと過激さに挟まれた中庸に見える選択肢でもあるが、ヘゲモニーの転覆を目論む点においてはきわめてラディカルでもある。現状打破を目指すが、現状の完全な置き換えは目指さない。「左派ポピュリズム戦略は「極左」の具現化ではない」、とムフがわざわざ警告しているのは、その意味で示唆的だろう。「ほかに選択肢はない」というネオリベは、「いや、選択肢はほかにある」という政治言説を「極左」とレッテル貼りして葬り去ろうとするが、ムフが試みるのは、極左ではないが依然として左であるネオリベ批判を分節化することである。

多くの自由主義の理論家たちは、政治的リベラリズムは必ず経済的リベラリズムをともない、民主主義的な社会は資本主義経済を必要とすると主張している。しかしながら、資本主義と自由民主主義のあいだに必然的な関係など存在しない。自由民主主義を資本主義の上部構造として提示することで、マルクス主義がこの混同に手を貸してきたことは不幸なことだ。この経済主義的なアプローチがいまなお、リベラルな国家の破壊を求める左派のいくつかのセクターで受け入られていることは本当に残念なことだ。今日のあらゆる民主的な諸要求を前進させるのは、リベラルな国家の構成原理――権力の分立、普通選挙権、多党制、そして市民権――の枠組みの内部においてなのである。ポスト・デモクラシーに対する闘争は、これらの諸原理を放棄することにではなく、それらを擁護し、根源化することにある(71頁)。

 

政治的リベラリズムを擁護しながら、経済的リベラリズムは批判する 

要するに、ここでムフが試みているのは、二方面作戦である。一方において、ネオリベ的経済体制のうえに築かれた政治的自由民主主義を絶対化する人々に闘いを挑みながら、他方においては、政治的自由民主主義は経済的自由主義の反映にすぎないとする左派を攻撃する。

端的に言えば、ムフの主張はこうなるだろう。政治的自由主義リベラリズムの国家の原理(分権、選挙権、市民権、多元主義)は擁護すべきである、経済的自由主義ネオリベラリズム的な経済至上主義、経済を政治に優先させるという考え方)は批判すべきである。経済的自由主義を絶対化することなく政治的自由主義を推進することは、可能である(71-72頁)。

この意味で興味深いのは、ラディカル・デモクラシーのプロジェクトは、必然的に、「反‐資本主義的な次元を含んでいる」というムフの主張だ(72頁)。しかしながら、ムフはすぐさま、この反資本主義闘争はプロレタリア階級を特権化しない、と続ける。というよりも、そう続けなければ、左派ポピュリズムプロレタリア独裁というオールディーな共産主義のプロジェクトと見分けがつかなくなってしまう。

ムフのプロジェクトが「ポピュリズム」と名づけられているのは、このプロジェクトを成就させるためには、大勢の人間を巻き込む必要があるという、きわめて至極当然な数の論理をムフが考慮しているからだろう。「左派ポピュリズム戦略がめざすのは、権力をとる人民の多数派を創出し、進歩的なヘゲモニーを打ち立てることである」(73頁)。

 

ポピュリズムを左に引き寄せる、ごちゃごちゃしたものを引き受ける 

ムフのプロジェクトは、右派ポピュリズム潜在的に持っているはずのポジティヴな可能性を左派ポピュリズムによって奪還し、それをラディカル・デモクラシーへと繋げていこう、という包括的で融和的なものである。その意味で、ムフの戦略は、シュミット的な友と敵という二分法による殲滅戦ではない。しかし、一元的な世界を作ろうというのでもない。

ヘゲモニーを考え方の軸に据えるということは、世界が複数的で多元的であることを受け入れることでもある。というよりも、複数の競合的な原理が拮抗しているところでなければ、ヘゲモニー=覇権を取るという方向性自体が出てこない。革命的政治もネオリベラリズムもともに退けられるとしたら、それは両者がともに、ヘゲモニーの無化を目指している、多元主義の否定(「ほかの選択肢はない」「共産主義オンリー」「ネオリベオンリー」)を最終的な目的としているからだろう。

複数性を受け入れること、それは、ごちゃごちゃしたものを受け入れることでもある。参加者のシンギュラリティ―を絶対的に尊重しつつ、「人民」というシニフィアンのレベルにおける情動的な連帯を確保しようという、欲張りな戦略でもある。しかしながら、2010年代後半の世界において、ラディカルな政治の可能性について考えるとしたら、まさにそうしたごちゃごたしたところを考えなければならない。

 

陳腐な提言かもしれない。しかし、この陳腐さを見くびることはできない。美しいスローガンでも、わかりやすいアジェンダでもなく、リアルでベタな陳腐さから始め直すしかないのだ。上で引用した箇所をもういちど引いておこう。

左派ポピュリズム戦略は「常識(コモンセンス)」にもとづく様々な考え方に働きかけ、人々の感情に届く方法で訴えかけなければならない。この戦略は、呼びかける人々の価値観とアイデンティティと(102頁)も調和し、人々の経験の様々な側面と結びつかなければならないだろう。人々が日常生活のなかで直面している問題と共鳴するような呼びかけを行うためには、彼らがどこに暮らし、何を感じているのかということから出発する必要がある。彼らを非難する立場から抜け出て、未来の展望と希望を示さなければならないのだ。(103頁)

 

翻訳の問題、「根源化」や「彼ら」でいいのか? 

翻訳についていくつか。おおむね読みやすいが、Radicalizationを「根源化」とするのは語感がよくない気がした。すでに定訳となっているテクニカルタームだから仕方のないことかもしれないが、カタカナで「ラディカル化」でよかったのではないか。

当然ながら、ここにはマルクスの言葉の残響がある。「ラディカルにやるというのは、ルート(根源)にまで立ち戻るということだ。」しかしながら、ここには、根源に戻るという時間的なニュアンスに加えて、徹底化する(広さという意味でも深さという意味でも)という空間的なニュアンスもあるのではないだろうか。分析においては根源に戻る必要があるし、実践においては徹底に押し進める必要がある、ということではないだろうか。もしそうだとすれば、「根源化」という訳語は片手落ちかもしれない。

 

103頁の引用で、「人々」を「彼ら」と受けているのは気に入らない。原文はチェックしなかったが、三人称複数の代名詞のthey/their/themでまちがいないだろう。なぜこれを「彼ら」と男性限定で訳すのか。些細なことではあるけれど、ムフの目指しているのが包括性であることを考えるなら、このジェンダー的偏りは理論的に問題がある。