うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

虚構をまるで現実のように読ませる:カルラ・スアレス、久野量一『ハバナ零年』(共和国、2019)

探偵だと思っていたのにいつのまにか追われる方になっていた、操っている方だと思っていたらいつのまにか操られる方になっていた。いつのまにかエージェンシーが侵食され、他人の駒を演じさせられていることに気づいてしまう。自分が主役の現実世界の話なのに、いつのまにか、うっかり別世界に入り込み、傍観者になってしまう。

その後、庭園を散歩した。彼によればまるでおとぎ話の世界、誰かの頭の中にだけ存在するような場所なので、自分たちがその誰かの夢の一部、本のページの中で動く登場人物になった印象をおぼえるという。池沿いに続く小道を歩きながら植物を眺め、水の音を聞き、静けさに感じ入っていると、確かに別世界にいるような、まるで街もその危機も存在しない、あるいはそれらがどこか遠く、例えば外国にあるかのような気がした。(75頁)

カルラ・スアレスの小説『ハバナ零年』が描き出すのはそうしたポジションの転倒だ。この主体と客体の転倒の系譜の先駆者として、トマス・ピンチョンの『競売ナンバー49』やイタノ・カルヴィーノを数えていいかもしれないし、ポール・オースターの「ニューヨーク3部作」を上げていいかもしれない。それは迷路への偏愛とでも言うべきものだろう。カフカ的な出口なき不毛な迷宮性が、ここでは、快楽的な箱庭的迷宮に転化する。

レオナルドは、[六〇年代にレーモン・クノーとフランソワ・ル・リヨネによって創設され、文学を愛する数学者たちとイタノ・カルヴィーノのように数字に惹きつけられた作家たちを集めていた]ウリポ・グループの構成員は自分たちのことを、「自らが脱出する迷宮をつくらなければならないネズミ」と呼んでいたとわたしに語った。わたしは、あなたがやっていることは多かれ少なかれそれね、小説という迷宮を作り、その後一人で出口を見つけなければならないのだわ、と言うと、彼は微笑みながら、迷宮はもうできている、あとは迷わないように助けてくれるきみの手があればいいと言った。(176頁)

スアレスの小説の経糸を成すのは、アントニオ・メウッチというイタリア人発明家がアレクサンダー・グラハム・ベルよりさきに電話技術を発明したことを証明するための文書探しなのだが、この文書が虚構のものなのか真実のものなのか、メウッチなる人物が本当に歴史上の人物なのかは、よくわからないままだ。

 

スアレスの『ハバナ零年』はポストモダン小説のある種の流れに与していると言っても不当ではないだろうけれど、強調しておきたいのは、このテクストはパズルのためのパズルのような衒学趣味の作品とは一線を画するものである点だ。『ハバナ零年』のメインプロットはとてもわかりやすいし、プロットを追うことに何の困難もない。しかしそれを追っていくと、いつのまにか、思いもよらなかったところに自分がやってきていることに気づいて驚いてしまう。エッシャーのだまし絵を目で追ってみたときに感じる、あの不思議な気持ちだ。ありえないはずのものが眼前にあるという驚きと喜びでもあれば、自分が信じてきた確固たる世界が揺らぎ始め、自分の感覚が信頼できず、足元の地面が回転して垂直になってしまったのに、依然としてその地面とも壁ともしれないものの上に立ち続けていられるという、高揚感に充ちた不安でもある。

虚構と真実をミックスさせながら、虚構のなかに真実を埋もれさせるというよりも、真実で虚構の断片を包みこむという図式となれば、すぐさまウンベルト・エーコの『薔薇の名前』が思い出されるのだけれど、スアレスの小説には1993年という明確な歴史的参照点が存在するし、キューバハバナという明確な地理的地点が存在する。その意味では、スアレスの小説は、歴史小説的なメタフィクションであると同時に、メタフィクション的な歴史小説でもある。

括弧付きの歴史小説ウンベルト・エーコは『薔薇の名前』にラテン語を導入することに挑み、成功した。レオナルドは科学を導入しようとしていた、ただし別の方法で。彼のイメージでは、すべてが事実に基づいているだめに、読者が虚構だと理解する隙がほとんどない作品だった。もちろん、と、彼は言った。あらゆる本は歴史の本も含めてすべて虚構だ、書いている人間の解釈に基づいているからね。わかるか、ジュリア? わたしが頷くと、彼は続けた。例えば誰かが、おれときみが別々にこの日々の午後の広場のことを物語るように依頼したとしたら、おれときみは別々の存在で異なる視線を持っているから、おれたちは異なる物語を語るはずだ。おれたちは現実ではなくて、おれたちの精神が作り出すことができる虚構を語っているにすぎない。面白いわ、とわたしは言ったけれど、レオナルドはわたしのことを聞くというよりはすっかり陶酔していて、見ているのもわたしではなく、もっと遠くにあるものを見ていた。難しいのは、と彼は続けた、だからおれの構想は野心的なんだが、現実をまるで虚構のように読ませるところにある。読者はソファーに座り、虚構という文学的な仕掛けに向き合おうと思って読みはじめる。ところがあるところまで進むと、まぎれもない現実が降りかかってくる。その本はどんな細部も証明可能な歴史的事実に基づいて書かれていたからで、このとき読者が心地よく入り込んでいたその虚構の空間はぐらぐらと揺らぎはじめ、読者波及に大文字の歴史の中に入り込んでいたことを発見するというわけさ。素晴らしいと思わないか? (37頁)

数学者と文学者が主要な登場人物たちの二極を成しているというのは、その意味できわめて示唆的である。歴史(メウッチ)についての小説は、つまるところ、歴史の真実の証拠を探し求める小説家や数学者についての小説でもある。キャラクターたちがすでに主題化しているものを、小説テクストは二重に主題化するのである。

 

歴史は二重に主題化される。メウッチの発明をめぐるパブリックな部分と、キャラクターたちの私生活をめぐるプライヴェートな部分とに。そしてもしかすると、そのどちらでも、同じ倫理的なニュアンスがあるのかもしれない。

過去を忘れたいとか、結婚が失敗だった言うがためにその手順が重要というのではないとエンジェルは言った。そうではない。一時代を閉じる、美しいものをとっておく、学んだことを忘れない、マルガリータを思い出の中のしかるべき場所に置いておくのさ。わたしは、彼の言葉と、あの夢中になった視線も気に入った。エンジェルは体を起こしてわたしの隣に座り、ひと息でグラスを飲み干して、自分たちが何者だったのかを知るために歴史をとっておくことは重要なのだと言った。(51‐52頁)

だからテクストが最終的に試みるのは、謎の開示であるとか、謎の解消ではなく、解き明かされてなお謎を謎のままにそっと取っておくことなのかもしれない。

そこにこそ、スアレスの小説の娯楽性(探偵小説的な意味での「読ませる」力)と抒情性があるように思う。『ハバナ零年』が試みているのは、エッシャー的な錯覚の不安と快楽という情動を、文字テクストによって作り出すことなのだとまとめてみたい気にかられる。 

 

メウッチ文書をめぐるメタフィクション的歴史物語に、キューバのある家族の歴史という緯糸が織り合わされる。メウッチ文書をめぐる探索は、実際、さまざまなカップリングを作り出す。語り手にして物語主人公である女性数学者のジュリアは、メウッチ文書を手に入れたがっている男たちとのつきあいをつうじて、彼らのあいだの錯綜した人間関係を発見していくが、それは同時に、すべてをいちどには語ろうとせず情報を小出しにすることで彼女を利用し続けようとする男たちの顔や体を発見していくプロセスでもある。

 

読者に話しかけるような、口語調のテクストでありながら、内省的な部分に欠けているわけでもなく、滑らかな外に向かった言葉と内のほうに沈静していく言葉が同居している。そうかと思うと、引用符もなしにキャラクターたちのセリフが地の文に流れ出し、テクストの主導権がジュリアの手を離れ、そしてまた彼女のもとに戻っていく。話し言葉のリズムとフローのなかに、普通なら話し言葉とはうまくつながらなさそうな別の声や別の層が自然に織り込まれている。この小説の魅力の少なからぬ部分は、独特な語り口にある。

あなたに聞いておきたいの。「きみ」って呼んだら気分を害するかしら? というのは、とても個人的なことを話しているから、「あなた」って言うと距離が生まれてしまうの。だから「きみ」って呼びたいの。いい? 続けるわ。(31頁)

このテクストは「語られたもの」という手触りを強く感じさせるものである。だからこそ、スアレスの小説はカルヴィーノを彷彿とさせるのかもしれないし、もしかするとそのモダニズム的な源泉には、ヴァルター・ベンヤミンの「物語作者」が見出されるのかもしれない。

 

そして、ここには、ハバナという場所の熱気、湿度、ラム酒がある。熱帯地域独特の空気だ。それがほのかに哀しく、そして、ほのかに読者の心に触れてくる。

この国では誰でも酒を飲む。悲しいときは悲しいから飲むが、嬉しいときは嬉しいから飲む。嬉しくも悲しくもないときは、何が起きているかわからないから飲む。いいラム酒があればいいラム酒を飲むが、いいラム酒がなければ自家製の安酒を飲む。問題は飲むこと。ずっと。気づいていた? ずっとよ。(59頁)