うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ミイラの鉱物性と樹木性:「古代アンデス文明展」

20190710@静岡県立美術館

ミイラの鉱物性と樹木性

体育坐りをするかのように膝を両手で抱きかかえたままミイラ化した女性。のけぞった頭のせいでむき出しになった顎の下のくぼみは老木の節のようである。肉が乾き、骨を覆うだけになった皮膚は黄ばんだ和紙のような質感をしている。落ちくぼんだ眼窩から覗く頭蓋骨や、半開きの口から垣間見える歯は鉱物のようだ。だというのに、髪の毛だけは、生前そのままであるように見える。その一本一本がヴィヴィッドで、シルキーな滑らかさと光沢を保っている。

ミイラはわたしたち人間が鉱物や植物と生を共有していることを思い出させる。乾燥した地域において、死体は自然にミイラ化する。そこでの死は、湿潤な地域とはちがっているらしい。腐敗して土に還るのではない。肉体はべつの変容を遂げる。べつのモノとなり、べつのモノの性質を帯びる。鉱物に、樹木になる。

乾燥した高地の文明の自然観は、湿潤な低地のそれとは、まったく異なっている。

そんなことを、静岡県立美術館で開催中の「古代アンデス文明展」の提示の終わりのほうにあった女性のミイラを見ながら考えていた。

南北と東西

アンデス山脈南米大陸の西海岸沿いに屹立する6000メートル級の山脈らしい。東からの湿潤な風が高い山脈によってさえぎられる。こうして山脈東側には湿潤なジャングルが広がり、西側には乾燥した砂漠が伸びる。アンデスの文明は、山脈と西海岸にはさまれた比較的狭いところに栄えたのである。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5b/Nasa_anden.jpg

会場で上映されていた映像によれば、インカ帝国の時代に栄えた天空都市マチュピチュはアマゾンとの中継地点だったかもしれないという仮説があるらしいが、展示物を見るかぎり、紀元前に始まりピサロらスペインの侵略者たちによって息の根を止められたアンデス文明は、山脈西側の、南北に広がる帯状の高原地帯において栄えたものであるらしい。

海岸から高原まで、かなりの標高差を含みこむ文明だったのだろうけれど、そこで栄えては消えていった諸文明の共通の基調をなしているのは、乾燥と土色である。

 

アーシーな色

今回の展示品がとりわけそうだったというだけなのかもしれないが、土器は総じて茶色がかっている。赤土のような感じとでも言おうか。色が入っている場合でも、パステルカラーということはなく、すべてが、赤土が舞う風に長いあいだ晒されたかのような、くすんだ色合いである。

赤茶色、茶色がかった黄色、茶色がかった灰色、茶色がかかった赤色。

 

装飾品と容器

原始的な「芸術」はおそらく宗教的なものと技術的なものの交わるところに出現したた。いや、アンデス文明が本当にそうだったのか、それとも今回の展示品がたまたまそういう印象を与えただけなのかは、いまひとつよくわからないところではあるのだけれど、芸術的なものの始まりは、日常で使うものの昇華か、日常を生きるために使う自らの身体を装うことであったように思われる。

それは実用的なものーーアンデス文明のなかを生きた人々にしてみれば即物的な使用価値を持つものーーであると同時に、呪物的なものーーー現代からふりかえってみれば、非科学的と結論せざるをえない実践のための道具ーーである。

そう考えていくと、壺や織物にしばしば宗教的な絵柄が使われているのはよくわかる気がする。そして装身具が呪術的な力を秘めたマジックアイテムであることも。

原始芸術は言ってみれば自然に近い、素材に近いものではないか。西洋絵画のような絵画、というか、絵画というもの自体が、芸術の年譜のなかではかなり後のほうに来るのではないかという気もする。もちろんラスコーの壁画のように、図像表象には万年単位の歴史があるけれども、移動式のキャンバスに描かれた絵は、かなり後代の発明ではないのかということを考えずにはいられなかった。

 

死と動物

原始宗教は人間の生のそばにあるものから始まるのではないか。生命の死や誕生、それから自然や動物にたいする畏怖から、である。死すべき存在である人間が単体では決して克服することのできないものとどう向き合うのか、という問いが根底にあるように思われる。

 

文字のなさ

アンデス文明は文字を持たない文明だった。アンデスの人びとが言葉を持たなかったわけではないし、おそらく文字という記録言語を持たないからこそ、アンデスの人びとは驚くほど豊かな図像的記号を発展させたのかもしれない。視覚的なものにたいする細やかで、おそらくはきわめて理知的でもある感性をアンデスの人びとが持ち合わせていたらしいことは、幾何学模様的なものから、具体的形象を持つものまで、さまざまな複雑な文様を織り込んだ織物をアンデスの人びとが長きにわたって作り出していたことによく表れているように思う。

図像で情報をやり取りすること、それはかなり複雑なコミュニケーション・プロトコルを必要としたはずだ。文字の流れはほとんど必然的なまでに単線的で不可逆的だけれど――だからこそ、19世紀末にステファヌ・マラルメは文字の記述法の圧政に抗おうとして、『骰子一擲』では文字を自由に散らせようとしたのだったけれど――図像はそうではない。同一平面にいくつものモチーフが広がり、絡み合い、さまざまな方向につながっている。それを読み解くことは、複数の方向性を同時的に把握することであり、その意味では、文字情報よりもはるかに高度な情報処理能力や解釈技術を要求したはずである。

アンデスの人びとは文字を持てなかったというよりは、持たないことで独自の視覚的感性を保っていたのかもしれないし、それがアンデスの人びとの自然観や生命観の基底を規定していたのだろうかと思ってしまう。

 

または、なぜ文字がいるのか

というよりも、なぜ文字がいるのか、なんのために文字が必要なのかと問うべきだろうか。記録の正確な伝播のため、記録の空間的に広範な伝播のためだろうか。たしかジェイムズ・スコットは『ゾミア』の序文のなかで、文字を持たない中国と東南アジアのあいだに住まう山岳地帯の人びとは、文字を持たないがゆえに、自分たちの歴史をかなり可塑的なかたちで継承していく――つまり口承であるがゆえに、集合的な記憶の改変がシステマティックに行われれば、それが正史として後代に引き継がれていくことになる――と述べていたと思うが、文字を持たないことによる記憶/記録の流動性という利点はあるのかもしれない。

しかしながら、アンデスの人びとは、文字を持たない代わりに、縄目での記録方法を発明していた。キープと呼ばれるものである。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a7/Inca_Quipu.jpg

これによって記録の正確さは担保されるし、縄という物質に刻まれたものだからこそ、記録の記憶者の主観に左右されるものではないけれども、この解読はやはり、文字情報の単線性や不可逆性とは別の原理に基づくものになるのではあるまいか。

それはある意味、瞬間的でもあれば――図形はひとめのうちに全貌をとらえることができる――時間を要するものである――細部を解読していくには、縄の一本一本を、行きつ戻りつしながらたどっていく必要がある。速くて遅いものだ。

 

統治のための技術の必然性と人為性

キープが効率的なシステムなのかはさておき、ある一定の規模を越えたものをコントロールするには、速度と効率性が必要であることは、ほとんど普遍的な原理であるように思う。そしてそれは、自然に発生するのではなく、人為的に発明されるものではないか。

別の問い方をしてみてもいい。いかにして人間社会は文化的に進化し、他の動物とは異なった存在となっていったのか。

効率性を上げるための技術(文字であれ、分業であれ、交通網の整備――インカ道――であれ)は、いわば、人間の所与の能力をブーストするものだ。そしてこの人為的な加速によって、ローカルな社会は巨大な帝国へとのし上がっていくのだが、そこには最初からある種の無理があるのかもしれない。

 

インカ帝国はスペイン軍の侵略によって滅ぶが、インカ帝国自体が、アンデスの諸文明を征服することで成立した帝国ではなかったか。ローカルでありつづけようとするものに普遍性を無理強いる者は、普遍性を謳う別のさらに強大な者によって同じように蹂躙される危険性を自らのうちにはらんでいる。

もちろん、こう言うことで、ピサロによるインカ侵略を免罪されることはありえない。ただ、帝国を築こうとするその欲望自体はそもそもいったいどういうものなのかと、あらためて考えてみたかったのだ。

 

何のために帝国は築かれたのか。帝国は何のために存在してきたのか。これからも帝国は存在しつづけるのか。