うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

問題化するステレオタイプ:チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

この物語は小説として書かれなければならなかったのだろうか。ノンフィクションのドキュメンタリーではダメだったのだろうか。チョ・ナムジュの『82年生まれ、キム・ジヨン』を読みながら、そのような疑問がたびたび頭をよぎる。

それはおそらく、随所で差し挟まれる統計的なデータのせいだろう。

キム・ジヨン氏が会社を辞めた二〇一四年、大韓民国の既婚女性五人のうち一人が、結婚・妊娠・出産・幼い子どもの育児と教育のために職場を離れた。韓国女性の経済活動は、出産期前後に顕著に低下するものの、二十から二十九歳の女性の六三・八パーセントが経済活動に参加し、三十~三十九歳では五ハ%に下落し、四十代からまた六六・七パーセントに増加する。(138‐39頁)

そして、このデータの正しさを裏付けるために、注までついているのだ(169頁)。

この点において、タイトルは示唆的だ。『82年生まれ、キム・ジヨン』とあるが、重要なのは、82年生まれという匿名的な部分であり、キム・ジヨンという個有名ではないのかもしれない。韓国語を解さないばかりか、韓国の名前のことを何も知らない身からすれば、この名前がはたしてどれだけ一般的なものなのか、特異なものなのかを判断することはできないけれど、チョ・ナムジュがこの小説で試みたのは、82年生まれの女性というステレオタイプを作り出すことであり、それに便宜的にキム・ジヨンという名が与えられたのではないかという気もしてくる。

しかし、このステレオタイプは、現実を歪めるというよりも、現実のなかにある問題を表面化させるものだ。女であるというただそれだけの理由で、日常的に、人生の節目でことあるごとに、遭遇させられる不利益や不都合を、可視化させるものだ。キム・ジヨンの物語は、女の経験を、最大公約数的な形で描き出す。おそらくそのためにこそ、特定の個人の生きられた経験に限定されてしまうノンフィクションではなく、それらを取捨選択することができる小説という虚構が必要とされたのだろう。

それは、不思議な営為ではある。小説はいわば嘘であることが存在理由である。小説に登場するキャラクターその人は、現実には存在しないことになっている。現実そのままではないから描けるものがあるというのが、小説というものだろう。しかし、『82年生まれ、キム・ジヨン』は、むしろ、虚構であることを期待される小説というジャンルを利用しているにもかかわらず、その内容は真実であることを求めている。

そこにこの小説の強さと弱さがあるように思う。つまり、小説というジャンルが利用されたのではないかという疑いがどこかで残るのだ。ここに重要な問題提起があることはまちがいない。男が読むべきもの、読まなければならないものであることもまちがいない。しかし、何か正しすぎる、何か模範解答すぎるという印象もある。まるでこの小説単体では自律しておらず、映画や映像に移し替えられることを求めているようなところがあるように感じる。

テクストの肌理が、小説のそれというよりも、シナリオやスクリプトに近いように感じるのだ。その意味では、姫野カオルコの『彼女は頭が悪いから』や温又柔の『魯肉飯のさえずり』は、似たような主題を扱いながら、小説として成立しているように思う。

おそらくこのテクストのもっとも小説的なモメントは、これが、キム・ジヨンを診察したカウンセラーである40代の男性の記録であったと明かされる、エピローグ的な「二〇一六年」だろう。彼は、結局、キム・ジヨンの生きられた経験を理解できない。男の無理解を抉り出すようにして小説は幕を閉じる。それはどうしようもなくアイロニックな、アイロニックだからこそどうしようもなく強烈なエンディングである。この問題提起をわたしたちは引き受けないわけにはいかない。