うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

何もなさなくていい状態に戻り続ける:三島由紀夫「邯鄲」『近代能楽集』

奇妙な戯曲だ。幼児回帰幻想のようなものが主題化されるが、それは、幼児化する青年と、幼児化を誘うかつての乳母的存在との相互依存によって出現するものである。それでいて青年には女性嫌悪と女性蔑視が入り混じっている。女を嫌い、女を見下す、それはどこか、男中心主義的なナルシシズムの倒立像である。

青年と乳母の共同作業によって織り上げられていく幼児的幻想の行き着く先は、繭のような空間だ。外界から隔離された、やさしい夢幻の園であり、子ども部屋がその象徴である。

 

しかしながら、その不気味なユートピアに至るには、いくつかの幻想が上演され、否定されねばならない。

親が否定されなければならない。青年は夢のなかで、美女と子をなすが、その子は殺されねばならない。それは子にたいする嫉妬――それでは、殺されるべき父から逆照射されたエディプス・コンプレックスにすぎない、それでは母=妻への愛が中心に残り続ける――というよりは、父になることへの嫌悪なのだろう。

『邯鄲』が、生物として生き続けること(「ある」こと)と、社会的に一人前になること(「なる」こと)とのあいだの弁証法であり、即時的で退行的な「ある」(または、「なる」=未なるものに変化することの逆走である、「もどる」=既知のものに帰る)のやわらかでグロテスクな勝利であるとすれば、青年は、生物学的な加齢も、社会的な成熟も、否定しなければならないし、両者の結節点に表れてくる親になること=未熟な存在の(再)生産者になることが、否定されなければならない。

青年はいわば象徴的に去勢されねばならないのだが、去勢は男性性の否定であり、それはミソジニーには受け入れがたい。それゆえ、子がまずなされる(男性性の肯定)、そして、そのあとで、子を殺す(親=父であることの否定)。こうして、男であるが(すでに)父ではなく、大人ではあるが子のままであるという矛盾した状況が完成する。

意志が否定されなければならない。親から引き継いだ会社を処分し、財産を寄付し、政界に打って出る。しかしこの大変身劇の裏側で、青年はつねに眠り続ける存在だ。というより、政治家への転換自体が、ほとんど受動的な出来事であるかのようである。クーデターのようにまたたくまに政界を掌握し、人心を獲得する。しかし、それはあたかも青年の意志に反して起こってしまったものだ。だからこそ、ここで劇の中心が、秘書であるとか、紳士たちによる噂話であるとか、医師団といった、青年の周囲の人々へと移っていくのだろう。青年はもはや決定する側ではなく、決定される側である。なるほど、彼は最後において、毒薬をあおることは拒否するが、それは、夢において生き続けるためであり、現実において生き続けるためではない。

死の拒否は、単純な生の肯定ではない。生き続けること、それは何かになること、何かをなすことではない。何かをなさずにあること、何もなさなくていい状態に戻り続けることである。

 

『邯鄲』において父も母も不在であるというのは象徴的だ。青年の実父も実母も登場しない。乳母は夫に逃げられている。夢の世界のなかで青年の父は故人である。象徴的に親なし子である青年は、親になりたくない男である。夫に逃げられた乳母は母になれない女である。

青年と乳母の結合は、エロティックでありながら、性的なものが消去されている。ふたりを結びつけるのは愛ではないし、失われたものを取り戻そうという希望でもない。不在を充足させようという欲望は、ここには存在しない。

失われたもの、奪われたものを、自ら失ったことにする。そうした倒錯のプロセスを経ることによって、欠損が甘美なものへと転化される。甘美なものになりかわった失われた世界のなか、ふたりはおそらく、精神的に老いることなく、痴愚的な純真さを生き続けるだろう。

 

女を嫌いながら、女に回帰する。母=妻を受け入れないでおきながら、母的なものに回帰してく。父になることで男を主張しながら、男であり続けることは拒否し、幼児の性的無力さのなかに引きこもろうとする。

この劇のなかには、『豊饒の海』から壮絶に茶番な割腹自殺にいたるまでの、三島由紀夫という美の求道者の軌跡がすでに集約的なかたちで予兆されているような気がする。