うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230102 マルサス『人口論』を読み終える

奇妙な本だ。人口と食料生産の話から、文明論(未開、アメリカ、ヨーロッパ)と続き、jコンドルセやゴドウィン批判にアダム・スミス批判、そして神学論。

表面的には、人口増加と食料増産の非対称性についての科学的=自然的議論であるかのように見える。しかしそこには、すぐさま、社会学的な考察がかぶさってくる。食料増産の不可能性が、人口増加にストップをかけるが、それとともに、貧困がストッパーとなり、悪徳がはびこり、階級分化が進む。

現行の階級制を正当化すること、それこそが、本書の使命であると言えるだろう。しかし、その一方で、階級分化が進みすぎることをマルサスは懸念する。というのも、ある程度の階級分化は、階級上昇の希望をちらつかせるがゆえに、勤勉な労働を奨励するのであり、それが食料増産につながる可能性はある。しかし、あまりに絶望的な現実を前にしては、わたしたちの覇気は萎えるばかりだろう。

マルサスは上流階級というよりも、中流から下流にかけての勤勉な労働者を働かせる立場から考えているのではないか。だから、下流を甘やかす救貧法には反対であり、その意味では福祉国家否定論者を先取りしている。ネオリベ的な脱規制派なのだ。

その一方で、福祉国家の完全否定ではない。救貧法の現在の在り方には反対だが、最低限のセーフティーネットの構築にはむしろ賛成する。温情主義的。かなりお仕着せがましい、父権的なニュアンスが強いけれども、レッセフェール一辺倒ではない。

それはここに神にたいする信仰がすべての基盤として存在しているからなのかもしれない。信仰は肯定されるし、神の御業はたたえられる。ここまで読むと、人間の完璧可能性にたいする激烈な批判は、人が神になることの否定であり、人と神の隔絶化のための議論ではなかったのかという気がしている。ゴドウィンやコンドルセ批判は、神の擁護と表裏一体なのだ。

性欲が抑えがたいものであるという議論の裏付けは行われていると言えるのだろうか。そこは怪しいところでもある。それから、数理的には、食料生産と人口増加のあいだに非対称性があるというのは正しいと思うけれども、果たしてこれが歴史的に実証(実現)されたケースはあるのだろうか。アメリカの例などは上がっているが、それはグラフでいえば最初の少しの部分を実証しているだけで、その後に同じような増加曲線を描いた歴史的事例はあるのだろうか。というよりも、そのようなカーブは現実にはサステナブルではないわけで、だからこそ実例は存在しないはずだと思うのだけれど、このあたりが何か嘘くさい感じがする。マルサスが引き合いに出す数字は、出だしこそ現実の裏付けがあるが、グラフの線の先のほうになってくると、仮説にすぎないものになる。

ここにあるのは、正当化のための議論だ。神と人の絶対的な距離(人間は不完全な、怠惰な存在である)、社会的階級(労働者階級を使う資本家階級)、それから、勤勉な労働倫理などを正当化するための議論。科学的(に聞こえる)議論や神学議論を、裏口から導入しているのではないかという気がしてならない。事実、本書において神学的な議論は最後になるまで大っぴらには表面化しない。

それから、ここには、フランス革命にたいする保守派の反応の伝統があるのだろう。つきつめれば、社会流動性の否定(または、きわめて限定的なかたちでのしぶしぶながらの肯定)。中庸的な現状肯定、微温的な改革推進派による現状肯定という意味で、本書はきわめてイギリス的と言えるかもしれない。

 

翻訳はいろいろとひどい。完全な語訳もあるし、mustの「ねばならない」「のはずだ」のニュアンスをただ削除している箇所が散見された。powerfulを「パワフル」とカタカナにするのも、個人的には違和感がある。たしかに、そのおかげで読みやすくなっている部分は否定できないけれども。

ただ、この読みやすさにはマイナス面もある。この訳では、マルサスの偏見(人間は堕落する、女は劣っている、未開人は劣っている)が増幅されるだけではないかという気がする。

中央公論社の世界の名著シリーズの翻訳がたまたま手元にあったので、問題箇所を少しだけ見比べてみたが、翻訳の正確さと言う意味では、名著シリーズの翻訳のほうがいい。ただ、名著シリーズはやや直訳めいた感じもあり、古色蒼然とした、一世代も二世代も前の翻訳という感じがすることも、付け加えておく。