うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230101 マルサス『人口論』を読み始める

マルサスの『人口論』(光文社古典新訳)を読む。マルサスの議論にはきわめて仮説演繹的な手ざわりがある。仮定を立て、逆ケースを想定し、反駁し、先取りした結論に雪崩れ込んでいくような、そんな出来レース感がある。その意味で、どこかアダム・スミスの道徳論に共通する手つきがあるように思う。マルサスの議論の根底にあるのは、人口についての純粋に科学的な分析をしたいという欲望ではなく、何かきわめて社会的で政治的なもの、たとえば救貧法にたいする反論があるのではないかという気がしてくる。『人口論 An Essay on the Principle of Population』というタイトルは、看板に偽りありという印象。

けれども、彼の立論の根本部分はやはり正しいうように思う。人口増加にストップをかけるのは食料生産である。食料がなければ人間は生きていけないし、そうなれば、当然ながら、人口は増えないし、たとえ増えたとしても、増加した分の命をつないでいくことはできない。

しかし、食料があれば人口がひたすら増えていくのかどうか。マルサスは現実社会においてはそこに社会的な抑制が入ると言うが、そのような道徳的、制度的なストッパーがなければ人口は無限に増えていくというのがマルサスの想定である。そのために引き合いに出されるのが、ヨーロッパに比べれば文明程度の低いとされる未開社会であったり、動物だったりする。

ここで非ヨーロッパの例、とくに中国の例が引用されるのは、これが18世紀末の著作(1798)であることを思うと、やや意外に感じるところでもある。しかし、グレーバーやウェングロウ(The Dawn of Everything)によれば、啓蒙主義時代では、新世界をはじめとするヨーロッパ外部の事例は知識階級のあいだできわめてポピュラーなものであり、一般常識のようなものであったというから、これはそういうことなのだろう。

マルサスには、侮蔑的なところというか、悲観的なところがある。現代であれば、やや皮肉を込めて、リアリズムと呼んでいいかもしれない資質である。

つまるところ、マルサスは小さな政府を支持する、脱規制派のネオリベの先駆者という印象を受ける。

しかし、興味深いことに、福祉国家全廃論を推しているわけではない(もちろん、福祉国家は19世紀末から20世紀初頭にかけての発明であり、このように言うのはアナクロニズムではあるけれど)。マルサスは当時のやり方の救貧法は批判する。なぜなら、マルサスに言わせれば、それは対症療法であって根治療法ではない。つまり、貧民を保護したところで、貧民の生活を維持するうえで必要な食料が増えるわけではないのだから、本当にやるべきは、その場しのぎで貧民を保護して、社会の富の分配をするという焼け石に水的な対策ではなく、食料の増産(それはつまり、農業開発であり、その意味でマルサス重農主義者であるようだ)のために資金を出すべきだ、というわけだ。

その意味で、マルサスには、生産力至上主義的なスタンスがある。問題の解決は、社会の富の分配方法を変えることではなく(ゼロサムゲームをするのではなく)、分配する富自体を増やすことにある。拡大主義的ネオリベによる、最大多数の最大幸福、とでも言おうか。

マルサスベンサムの関係はどうなるのだろう。マルサス、1766‐1834。ベンサム、1748‐1832。マルサスのほうが2回り近く年下だが、没年は近い。バーク、1729‐1797。かの有名なフランス革命論は1790年出版。バークにとってフランス革命は晩年の出来事、ベンサムは中年期、マルサスにとっては青年期のものということになる。それがどのように彼らの思想に影を落としているのか。