うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

俗っぽさとコケティッシュ:みわぞうsingsブレヒト静岡スペシャル 音楽紙芝居『三文オペラ』

20191221 @マルヒラ呉服店  

ブレヒト‐ワイルが求める俗っぽさ。なぜわざわざこのような場所で思ったが、意外や意外、なるほどという感じがした。『三文オペラ』自体は劇場で上演されているから、ちょっと事情は違うだろうけれど、20年代30年代のキャバレーソングというのは、ミュージックホールではないところで、クラシック音楽界が考える意味の「プロ」ではないパフォーマーが、音楽だけを求めているのではないオーディエンス相手にやるというような状況を想定して作られているのかという気がした。店内に所狭しと並べられた椅子、近隣のワインバーがふるまうワイン、休憩中に配られる手作り一口おにぎり、それはどれもこれも、コンサートホールやオペラハウスが要求する「くそ真面目さ」に対照されるものであり(しかし必ずしもその否定ではなく)、そこで生まれる「ゆるい真面目さ」――純度は必ずしも高くないけれど、そのレベルで可能な強度や密度のなかではかなり高い――こそ、ブレヒトたちのパフォーマンスが求めているエートスなのではないか。

キーボードとチューバとクラリネットとチンドン太鼓という変則的な編成が意外なほどうまくハマるのも、同様の理由なのだろう。こうでしかありえないという狭隘な純粋さはブレヒトたちの求めるものではないのだろう。何でもよいというわけではないし、あるものですませるというブリコラージュでもないとは思う。たしかにガイドラインのようなものはあるけれど、想定されているモデルにはかなりの余地があるということだろうか。

ブレヒトは俗っぽいものを洗練させすぎない。俗っぽいものを俗っぽいままに提示しながら、そこに同じく洗練されすぎていないけれど依然として批判的な力を持っているものを、ぶしつけにぶつけてくる。これがジョイスのような書き手になると、たとえポピュラージャンルを取り込んで模倣するにしても、うまくやりすぎる。それは一流シェフが作った洗練の極みにあるハンバーガーのようであり、もはやチープなマックのハンバーガーとは似て非なるものである。しかしブレヒトの場合、きちんと手作りであるにもかかわらず、依然としてマックのハンバーガーのチープさが消えていない。なるほど、それはボルヘスが「ピエール・メナール」で語ったよう、作り手の意図の問題というよりは受け手の問題、つまり、作り手と受け手がシェアする文脈の問題なのかもしれないとは思う。『ドン・キホーテ』の文章を20世紀初頭において一字一句たがわず再現することは、表面的なレベルでは単なるコピーであるけれど、その文化的な意味はまったく異なってくる、つまり20世紀において17世紀の文体で書くことは擬古典調を使うことである、というように。しかし、おそらく、マックのハンバーガーと、一流シェフが完全再現したマックのハンバーガーとのあいだにあるような相当に微妙な差異が、ブレヒトと組んだワイルの音楽と、ワイルのミュージカル音楽の差なのかもしれない。

コケティッシュさという現代の文化シーンから消えつつあるように見えるものが、ブレヒトの音楽には絶対に必要なのだと思う。それは単なるエロではないし、かといって、演じられたエロでもない。それはパフォーマー自身が所持する属性のようなものであって、そうであるがゆえに、パフォーマンスのなかに自然とにじみ出てくるようなものであるような気がする。つまり、コケティッシュさはいわば存在の領域に属するものであり、それゆえ、胸や尻のような特定の性的対象――ポルノや萌え絵が容易に強調できる記号的なものである――ではなく、全体的な雰囲気なのだろう。そしてそれは、部分の総和以上の何かである。バーレスクやストリップのようなものもまた、そのような領域に属するものであるような気がする。

観客の反応で面白いと思ったのは、絞首刑前のマックヒースの最後の演説――これは中産階級の下の方の階級の没落だ、金庫破りより銀行のほうがひどいだろ、人を殺すより人を雇うほうがひどいだろ、じゃあこれで終わりだ――が大いに共感を集めているように見えたところだ。なるほど、そこに受けるのか、と。とはいえ、ブレヒトが意図的に前面に出してくるぶしつけさやあけすけさは、もしかすると、昭和的なもの(というかPC的な文化が否定することから始めるところ)をいったん経由しないと、その批判的効果がうまく評価できないのではないのかもしれない。もしブレヒトの演劇を民衆的と呼ぶことができるとしたら、それは、ブレヒトの劇がいわば民衆的なリアリズム――きれいごとは建前、金は大事、みんな悪人――を注釈も批判もなしに受け入れ、注釈も批判もなしに繰り返し、そのうえで、それを横から揺さぶるような何かをその横にわざとらしく並べてくるからだろうか。こう言ってみてもいい。ブレヒトが使うコンテンツやレパートリーは民衆的だが、そのアレンジメントはそうではない。

 

あとはいくつか気づいた点。

 

大岡さんが冒頭のマックヒースのモリタートを、自身の訳もふくめ、幾人かの訳で熱唱していたけれど、大岡訳の特徴は、長音に割り当てる音にあるのかなという気がした。日本語の特性上、意味のために音をつめこまざるをえないところがあるし、その問題はどんな翻訳でも完全には解決できない。しかしどの音を長音に当てはめるか、伸ばしやすい音、広げやすい音、繋げやすい音、つまり、歌いやすい音を選ぶかどうかの点において、大岡訳は非常にうまい。

とてつもなくこなれた現代日本語訳であるからこそ、紙芝居に描かれた偽英国紳士的な風貌のピーチャムに違和感を覚える。むしろウシジマくん的なキャラのほうがハマるのではないか。歌部分は意外とそうでもないのだけれど、セリフ部分はあの絵といまひとつフィットしていない。

なぜにチューバと思ったが、ベースの代わりなのだろう。たしかに音域的には近いのかもしれないし、移動しながらでも演奏できるということを考えると、チンドン屋的な音楽にはベースではなくチューバなのだろうか。

キーボードの音がやや大きすぎたように感じた。座っていた席の問題かもしれない。ともあれ、音響の問題は、ミュージックホールではないところでやる場合の宿命だろうし、それを大問題扱いしてしまうと、キャバレーソング的なジャンルを根本から否定してしまうことになるから、ここに目くじら(耳くじら?)を立てるのは違うような気はする。

 

耳で聞くと、ジェニーの海賊の歌がかなり奇妙なものだということはよくわかった。エルンスト・ブロッホはこの歌のなかの大砲の音をフィデリオで鳴り響くトランペットの音になぞらえ、その黙示録的救済性を指摘していたと思うけれど、海賊がやって来て自分以外をみんな大砲でやっつけましたという破壊性を讃えるのは、きわめて20世紀的な左翼暴力革命のイメージを引きずっているのではないかと改めて思った。

その意味では、ピーチャムの脅しの演説――女王陛下のパレードに乞食とか病人が勢ぞろいしてたらまずいだろ――のほうが、現代的な戦略であるような気がした。大杉栄はたしかどこかで弱者にだって暴れる力が備わっていると述べていたけれど、それと同じように、社会が「醜悪」と見なす存在をそれが好ましからぬ場で見せつけることは、まったく「平和的」でありながら、何よりも強いプロテストでありうる。それは存在そのものによる抵抗であり、抵抗する存在そのもののプレゼンテーション(リプリゼンテーションではなく)でありうる。もちろん『三文オペラ』の文脈では、そうした醜悪な群衆はピーチャムのコントロール下にあるという設定だけれど、群衆的なものの管理不可能性と予測不可能性は、群衆が、一枚岩的なカテゴリーではなく、シンギュラリティーによるシンギュラーに雑多な寄せ集めである現代ほど、いっそう不気味なものとして台頭してきているのではないか。