うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

『三文オペラ』における群衆の可能性

「ピーチャム おれは気づいたんだ、この地上の金持ちどもは、貧困を生み出すことはできるくせに、貧困を直視することはできないってな . . . あいつら、腹が減ってぶっ倒れる人間を目撃して、知らんぷりをするってのは無理なんだ。だから、どうせぶっ倒れるなら、あいつらん家の目の前でぶっ倒れてやんなきゃな、もちろん。」(大岡淳訳『三文オペラ』120‐21頁)とブレヒトは「乞食の友社」のオーナーに言わせるが、現在、1)貧困を生み出した金持ちは貧困を直視する必要がなく、2)貧乏人は金持ちの家の前に近づくことすらできないのではないか。
ノブレス・オブリージュはそれよりもさらにうさんくさく、実効性にも欠けるトリクルダウンに取って代わり、ゲーテッドコミュニティが空間的にも富裕層と貧困層を切断している。
貧困がスペクタクルであり、さらに言えば、「使える」スペクタクルである点には依然として変わりはないだろう。しかし、そのようなスペクタクルが――不謹慎であることを承知でいえば、エンターテーメントとして――消費されてしまう危険性は、インターネットが社会のデフォルトになった21世紀において、はかりしれない。
「ここで逮捕できるのは、一部の若者たちだけでね、こいつらは女王陛下の戴冠式だ! ってうれしくなって、ちょっとした仮装行列でもやらかそうってノリなんだ。本当に貧乏な連中がやって来ればね、ここには一人もいないんだがね、いいか、そりゃ何千人が押し寄せるってことなんだよ。つまりね、あんたは、とてつもない数の貧乏人が存在するってことを、忘れてんだね」(127頁)とピーチャムが続けて言うように、スペクタクル的な表象(representation)ではない、現出=出来事(presentation)としての群衆の可能性は、たしかにある。
しかし、仮想的可能性でしかないにせよ、すでに現実のなかに確かに潜性しているものとしての圧倒的な多数としての群衆の攪乱的かつ転覆的な力は、『三文オペラ』においてはっきりと分節されることはないし、そもそも演劇的に表現しがたいものなのかもしれないし、ソーシャルディスタンシングと反濃厚接触を必要条件として内在化しなければならないのかもしれないポストコロナ時代においては、ますます不可能事になっていくのだろうか。
 と書いた後で、パトリス・シェロー演出の『神々の黄昏』の幕切れは匿名の群衆の潜勢力の表象ではないかということに思い至った。