うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。「させていただく」の支配。

特任講師観察記断章。たしかにたったひとりの再テストのために再びテストを作成するような手間はかけられないとは言った。何をやればいいですかとこちらにただ聞くはやめてくれ、何をすべきなのか自分で考えてきてほしいとも言った。それから、徒労でしかない罰を与えたいわけではない、英語能力を伸ばすために有意義な課題をやってほしいのだとも言ったはずだ。最初のポイントは話の糸口であり、対話のトーンを調律するためのとっかかりのつもりだった。けれども、1週間後の返答を聞くと、「先生に手間をかけさせないこと」が想像をはるかに上回って強く伝わりすぎていたことに気づいた。
「させていただく」の支配がすでに完成の域に達しているらしい現代日本において、教育すら、上からの寛大さの産物としてしか想像しえないのだろうか。
「させていただく」と言うとき、行為者の主体的な意志はもはや二次的なものになっている。根源にあるのは、行為者の行為に「許可」を与える権力だ。そのような考え方をしてしまえば、行為者は自己の正当な権利をみずから手放すことになるばかりか、決して優しくはない権力にみずからを預けることになってしまう。まるで王の気まぐれに翻弄される臣民のように、翻弄されながらもそうであるほかはない共依存状態の被害者のように。それは剥奪不可能なものとしての人間の権利、分離可能なモノというよりは存在の分かちがたい一部としての権利――尊厳と言ってもいいだろうもの――を、相手の機嫌を損ねないというただそれだけのために、根本から否定することではないか。そこまでの自己卑下のあとに、それほどラディカルな自己の過小評価のあとに、いったい何が残るのか。
知性の運動として健全なのは、根拠なき自己肯定ではなく、根拠ある自己懐疑だろう。ひとりよがりな独我論に閉じこもってこじらせてしまうよりは、無限後退の相対論のなかをさまようほうが、まだましかもしれない。しかし、そのような漂流はかなりあやうい。
「受け身」であることは問題だけれど、そう言うとき、そこではまだ「受け手」という実体が想定されているだろう。しかし、いまや、その「受け手」という受動的主体までもが解体しつつあるように思う。それはたしかに、ある意味では、他者に開かれた、レヴィナス的な他律性の倫理につうじるのかもしれないけれど、現状としては、倫理的な他者ではなく、他者の身勝手な欲望という暴風雨に無防備に身を曝すことにしかなっていないような気がする。
不思議に思う。性善説を心の底から信じているはずはないだろうに、そのような懐疑を養分にして生長した態度は、性善的他者にたいする依存めいた信頼の顔をしている。