うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240303 『高畑勲展——日本のアニメーションに遺したもの』@静岡市美術館を観る。

20240303@静岡市美術館

高畑勲展——日本のアニメーションに遺したもの』は大変充実した展示だった。手書きのノートから絵コンテからイメージボードから原画まで、ポスターやちょっとしたインタビューやアニメーション映像まで、相当な点数があり、美術館が「じっくり見ると2時間はかかります」と但し書きしているのも納得のボリューム。展示スペースを確保するために、通路をずいぶん狭くしており、順路はかなり曲がりくねっている。しかし、この濃密な内容から、高畑が飽くなき表現の探求者であり、有能な協業者であり、実験精神の持ち主であったことがはっきりと浮かび上がってくる。

高畑勲宮崎駿は長きにわたる仕事仲間だったが、自身の表現を同じ方向に進化させ、その密度や精度を高めていくばかりだった宮崎とは裏腹に、高畑はあえて表現の方向を変えることを選んだ。それは高畑が、1990年代、緻密すぎる描きこみが視聴者の想像の余地を奪っているのではないかという危惧を抱いたからであるらしい。これは、『もののけ姫』から『千と千尋の神隠し』にかけて、ますます背景を細部に至るまで埋め尽くしていった宮崎とは対象的である。『となりの山田くん』や『かぐや姫』は、意図的に余白を残し、線画における線の勢いや力を前面に押し出すことで、視聴者が映像を受け身で消費するのではなく、映像にみずからを移入するような、アクティブなかかわりを生み出すことを目指したという。

しかし、この一見したところ、下書きのような絵は、新しいデジタル技術や、卓越した描き手たちに支えられてのものでもあった。アニメーションの原初的なところに立ち戻るために、現実の忠実な写実ではなく、描かれた線のイマジネーションをふくらませるためには、それまで培ってきたのとは別の新しい手法が要求されたのだった。新しい表現の追求は、高畑を日本の絵巻物の研究に導くとともに、新しい技術の探究へと駆り立てていった。

アニメーションは、つまるところ、共同作業なのだろう。どれだけ優れた描き手であろうと、すべてをひとりでやるのは物理的に困難である。人海戦術を必要とする。だからこそ、突出した才能が生み出したものをチームとして共有して、チームとして作り出されたものを統合していく必要がある。キャラクターの相関関係をチャート化したり、物語の時系列を整理したり、物語のテンションを図式化したりと、高畑は、イメージボードによる直感的な意思疎通だけではなく、全体像を全員が同じようにクリアに可視化できるようなシステムを作り上げていった。それは、彼がインタビュー映像のなかで述べていたように、「貧乏性なので、無駄に絵をかかせるのは、描く人に申し訳ないと感じた」という現場感覚に端を発するものであっただろうけれど、結果論で言えば、高畑はそのような意思疎通のためのさまざまなシステムの構築者であったことはまちがいないようである。彼はマネジメントを気にかけていた。

(しかし、それはもしかすると、高畑がみずからは絵を書かない人だったからこその苦肉の策だったのかもしれない。自身が想像するものをいかにして他者に表現してもらうかが、彼にとっては切実な問題であったはずだから。そして、高畑が、親会社との折衝や興行的な成功にかんしては、決して上手くはなかったことも、付け加えておかなければならないだろう。その意味で、高畑のなかでは、実務家的なところと芸術家的なところが、独特なかたちで混ざり合っていたのだろう。職人的な描き手にたいしては実務家的なところを見せるが、ビジネスパーソンにたいしてはアーティストとして衝突する。)

高畑の作品は、『ハイジ』(スイス)や『赤毛のアン』(カナダ)といった西欧的な物語を経て、『じゃりン子チエ』(大阪)や『おもひでぽろぽろ』(山形)に向かい、『平成狸合戦ぽんぽこ』に明確に見られるように、里山(の破壊)の問題に着地していった。

しかし、高畑の作品を、日本的主題への回帰と特徴づけるのは、何か違う気がする。たしかに、題材こそ日本的なものに向かっていくけれど、彼が最初期の『太陽の王子 ホルスの大冒険』から一貫して追求していたのは、神話的な想像力ではなかったと思うから。そしてそれは、おそらく、宮崎にも共通のことであるように思う。

神話には超常的な事柄が多々ある。たとえば竹から子どもが生まれたり、空を飛んだり、雲のうえに着地したり。しかしながら、神話の舞台は常にこの世である。この世についての、この世ならざる物語、それが、科学的説明とは一線を画する(しかし、根本ではオーバーラップする——なぜなら、神話も科学も、この世の「なぜ」や「どうして」を解き明かそうとする言説であるから)神話的なものである。そのような神話的な、この世の別の説明可能性を、高畑はずっと求めていたのであり、それこそまさに、現代のアニメが失ってしまった荒唐無稽さであるように思う。