うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240225 ウィム・ウェンダース『Perfect Days』を観る。

ウィム・ウェンダースは2年前のレトロスペクティヴで観て気に入ったということもあり、公開されてからずいぶん経ってしまったけれど、やっと『Perfect Days』を観てきた。

よくもわるくもウェンダースという感じ。「ウェンダースは距離を撮る映画監督」、しかも、「物理的な距離というよりも、心理的に親密な距離」と2年前に書いたすこし自己引用する。

一緒の時間を過ごさなければならない状況に陥ってしまった人々が築いていく関係[…]が作り出す微妙な「空気」を映し撮ることを、ウェンダースは試みている

 

ウェンダースの映画では無言の時間が長い。登場人物が寡黙だからというのではなく、言葉以外のやり方でつながろうとするからだ。こう言ってみてもいい。言葉は交わされるけれども、言葉の意味はそれほど重要ではない。言葉が交わされたこと、なにかがやりとりされたということが、なによりも重要なのだ。

 

特別なことが起こっているわけではない、何かの言葉が交わされているのでもないなにげないシーンでも、しかるべきアングルとフレームがあれば、しかるべき音楽があれば、間が持ってしまう。映像として成立してしまう。それを成り立たせるのは映画監督の直感的なセンスであり、方法論化しづらい唯一的なフィーリングなのだろう。ウェンダースが作家主義に数えられる監督であるのはわかる気がするし、彼が小津安二郎を尊敬しているのもよくわかる気がする。

 

見やすく分かりやすくしようという配慮は感じられないが、見づらくていい分かりにくくていいという独善的な傲慢さも感じない。彼の映画が短めのシークエンスのまとまりで出来ているところから、とくにそのように思う。おそらく、明確な出来事が起こらない映像を見続ける生理的な限界がどのくらいになるかを、ウェンダースはある程度まで計算しているのではないか。ある程度のところで暗転し、場面が切り替わる。そこで観客は一息つける。その塩梅が巧み。しかし、その塩梅にしても、反復可能なマニュアル的なものではなく、作家のセンスにまかされているように思う。

 

ウェンダースの映画を観たことが、現在進行形で、自分の生の在り方に大きな影響を与えているような気がしてならない。[…]認識が細やかになり、鑑賞がスローになり、物事に深く長く丁寧に潜っていくようになってきている。世界にたいする寛容度が高まり、世界をあるがままに、おおらかに受け入れるようになってきている。

世界をありのままに肯定するというのではない。ウェンダースが描き出すのは、すこしずつ歯車が狂っていく物語だ。それを観ることをとおしてわたしたちは、わたしたちの自明性を疑い出す。彼の映画は、わたしたちを、思想のレベルではなく、感性や情感のレベルで、組み替えていく。

心がすこしずつ、しかし、とてもとてもラディカルに、ゆっくりと、作り変えられていく。スローに変容していく自分がなぜか愉しくてしかたない。

『Perfect Days』もこの路線上にある。

 

役所広司が演じる平山という男は、トイレ掃除を生業する中年男性である。風呂無しの1階2階のあるアパートに独りで住み、同じような日常を規則正しく反復していく。

近くの神社を掃き掃除する箒の音で朝早くに目覚め、歯を磨き、ヒゲを整え、大切にしている盆栽に霧吹きをし、作業着のつなぎを身にまとい、玄関前に一列に並べておいたカメラや鍵や小銭を順番にポケットに入れ、自動販売機で缶コーヒーを買い、プルタブを開け、トイレ掃除用の道具を積み込んだワゴン車に乗り、コーヒーを一口すすり、カセットテープを選び、清掃先のトイレに行き、路駐して、掃除し、別のトイレに行く。昼食はコンビニで買ったと思しきサンドイッチと牛乳。仕事が終わると帰宅し、つなぎを脱ぎ、自転車を走らせて銭湯に行き、自転車を走らせて地下道にある顔なじみの飲み屋の定位置に座る。夜は文庫本を読みながら眠りに落ちる。

仕事に行かない日は、つなぎとほかの洗濯物をもってコインランドリーに向かい、古本屋を物色し、現像に出してあったフィルムを受け取り、新たなフィルムを買ってカメラに入れ、行きつけの小料理屋でいつもよりすこし贅沢する。

 

映画は平山の何気ない日常を反復する。まるで同じ映像を繰り返しているかのように(もちろん、実際はそんなことはない)、同じ所作が繰り返される。カメラはそれを淡々と映し出していく。何かを無理に強調したりすることはないし、奇をてらったアングルに頼ることもない。しかし、なぜか観させられてしまう。そして、この一見単調に見える日常が、実は、とても豊かなものであり、平山にとっては充実したものであることが見えてくる。神社で新芽をもらってきて大事に植え替えたり、フィルムのカメラで木々の梢をランダムに撮影したり、第三者的には無意味に見えることが、平山にとっては大切な事柄なのだ。

しかしながら、映画は、平山の内面を映し出そうとはしないし、平山自身にも語らせようとはしない。カメラはただ黙々と生きる平山を追うだけであり、むしろ言葉として表面化するのは、同僚のぼやき―—それで楽しいのか、なぜそんなに真面目に仕事するのかという問いかけ——である。映画冒頭で平山があまりにもしゃべらないので、もしかすると彼はしゃべれない人なのかと思ってしまうほどに、平山は寡黙であり、だからこそ、これの日常のルーチーンにどのようなに受け止めればいいのかと、観客を戸惑わせる。

 

平山の社会的な疎外はあきらかだ。トイレのなかで泣いていた子どもを助けてあげたというのに、その母親は、子どもの手を引いていた平山の手が汚いとでも言うかのように(しかし、きわめて自然に、ある意味では、まったく悪意もなく)、ウェットティッシュで子どもの手をふく。そして、眼前で繰り広げられるその一部始終を目にして、平山は怒りや悲しみを浮かべることはない。

清掃中のトイレに入ってきて、用を足す人々は、まるで平山がそこにいないかのように振る舞うし、そのような当然のような無視に呼応するかのように、平山は静かにトイレから出て、外で待つ。

トイレを清掃する平山に感謝の言葉をかける者はいない。社会的に必要な労働をしている平山は、社会のなかの人々からは、まるで存在しないかのように扱われているし、平山自身、そのような扱いを受け入れ、みずからを消すような振る舞いをしているようにも見える。すくなくとも、彼はあえて声をあげて、みずからの存在を主張しようとはしない。

 

『Perfect Days』の前半が、いわば、すでに何度も何度も繰り返されてきた平山の日常を描き出しているとすると、中盤から後半は、社会から孤立しているように見える平山の前史のようなものが浮上してくる。家出してきた平山の姪——実の妹の娘——が転がり込んでくる。そこで初めて平山は柔和な顔を見せ、言葉を口にするようになる。

そこで明らかになってくるのは、平山と父親との確執であり、社会のなかのアウトサイダーであるという自己認識——自分は別の世界に生きている人間だ——である。しかし、そこには、ルサンチマンもなければ、苦々しさもない。きわめて淡々とした、達観したような告白。社会のなかで普通に生きられないことにたいする恨みはないし、社会のなかで普通に生きていこうというつもりもない。もちろん、そのような境地に至るには、さまざまな紆余曲折があったことだろう。平山の部屋に積まれた本も、車のなかのカセットテープも、平山がすこしずつ集めていったものであるらしいことを思うと、彼の繰り返される日常は、長い時間をかけて作り上げられてきた、彼にとって満ち足りた世界なのだろう。

平山はそこに安住しているが、閉じこもっているわけでもない。姪との楽しそうなつかの間の日々は、彼がまだ社会とつながることができることを示しているし、娘を迎えにきた妹を抱きしめるとき、彼が家族にたいする感情を失っているわけではないことが明らかになる(しかし、父が介護施設に入ったと聞いた平山が、父のもとを訪ねることはなさそうであるし、今後、妹と定期的に会うようなこともなさそうである。ありうるのは、姪が今後も訪ねてくることだろう)。

 

もしここでこの映画が終わっていたら、陳腐とは言わないまでも、ありきたりではあるような、家族愛の物語になっていただろう。しかし、『Perfect Days』はこのまま終わらない。もうふたつ、平穏な日常を揺さぶる事件がある。

 

ひとつは、小料理屋の女将が男と抱き合っているのを目にして逃げ出してしまうシーン。この男は離婚した夫であり、病気で余命いくばくもないことを告げに来たところだったことが後に判明するが、このシーンを目撃した平山はルーチーンにない行動に出る。缶チューハイを何本も買い込み、煙草を買い、河川敷でやけ酒めいたことをする。そこにさきほどの男がやってくると、そこでは、不思議な男同士の友情が生まれる。酒を酌み交わし、じゃれ合い、「影は重なると濃くなるのだろうか」という男の言葉を確かめるために、実際に影を重ねて、「濃くなっている」「いや、そんなことはない」というたわいもないやり取りをする。日常はつねに終わりうることを、しかし、だからこそ、日常のなかでささいなことを試してみることの大切さを、不思議なほどに強く意識させられる。

 

しかしながら、「完璧な日々」と題されたこの映画の最大の皮肉は、完璧な日々をかきみだすのが、家族の問題でもなければ、行きつけの店での人間関係でもなければ、同僚との関係でもなく——「金がなきゃ恋もできないのか」とぼやく仕事に不真面目な同僚は、けっして好印象の若者ではないし、平山のコレクションのカセットテープを高く売って金をせしめようとするが、その一方で、子どもには屈託のない笑顔を見せる——、突然仕事をやめた同僚の穴を埋めるためにシフトの調整をしない清掃会社であり——2人分の仕事を1人でやるように強いられた平山は、仕事終わりに、この映画で初めて声を荒げて怒りをあらわにする——、平山が清掃するトイレのそばの公園に住んでいたホームレスと思しき男がそこから追い払われ、街を彷徨っているという現実である。

 

とはいえ、平山がこの現実——労働者としての経済的な現実、ジェントリフィケーションという政治的な現実——にたいして、何かできるというわけではない。彼はこれらの目撃者ではある。しかし、社会のメインストリームから外れた彼は、社会の余白に自分だけの「完全な日々」を作り出すことができている。ある意味、彼は社会から排除される前に、みずからを社会から隔離し、そうすることで安定を保っている。しかし、社会に隔離され、排除されるホームレスのような状況に陥っているわけではないし、仕事からあぶれないかぎり―—そして、平山の仕事が、いわば大多数がやりたがらない仕事である以上、ほかの労働者との競争によって首を切られる危険は少ないかもしれない——、彼は彼なりの「完全な日々」を送り続けることができるのかもしれない。映画の前半が示したように。

けれども、そのような「完全な日々」のもろさを、『Perfect Days』は露呈させる。ひじょうにやんわりと。

ここには、ホームレスを実際に排除するようなシーンはない。平山はいつも見かけていたホームレスが街を彷徨っているのを目にするだけだ。しかし、だからこそ、眼に見えないところで排除が行われていることを目の当たりにさせられてしまうからこそ、いまの社会に潜在する暴力性——すくなくとも、社会のあぶれ者たちにたいする——が、不気味なまでの居心地の悪さをともなって台頭してくる。

 

だから『Perfect Days』は不気味な後味を残す。平山の満ち足りた日常のささやかな美しさは心地よいものであるし、平山が愛聴するカセットテープの音楽は軽快である。しかし、その一方で、満ち足りた日常はけっして永遠に繰り返されていくものではないことを、否応なく気づかされる。

いや、こう言ったほうが正確だろうか。わたしたちは自分たちだけの「完全な日々」を作ることができるかもしれないし、それを維持していくこともできるかもしれない。しかし、そこにはつねに、自分たちではどうにもならない力が及ぶ可能性がある。そしていまの社会は、そのような力が遍在している。

ただし、平山もウェンダースも、そのような力の遍在性を明らかにする一方で、それとどう向き合うべきなのかを示唆することはない。そこにこの映画の不気味な後味がある。問題は示された。その問題がどのような帰結を生むかもわかった。しかし、わたしたちはその問題の帰結を、あくまで目撃者として、なかば当事者ではあるものの、直接の被害者ではない傍観者として体験する。

だからわたしたちはこの問題を忘れて、みずからの「完璧な日々」を営むことに向かうこともできる。しかし、それを破壊するような力が我が身に降りかかってきたとき、わたしたちの日常はいったいどうなるのだろうか。そのような漠然とした不安を残して映画は終わる。