うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

豊饒な抒情性:ジャン・ジロドゥ、安堂信也訳『ジークリート』(白水社、2001年)

ジャン・ジロドゥの処女戯曲ではあるが、ジロドゥはすでに小説家としてデビューしていた。そしてこの戯曲はすでに出版していた小説の改作であるという。小説のほうは読んでいないので、小説から戯曲へのアダプテーションにおいてジロドゥが何を行ったのかを論じることはできないけれど、この作品がジロドゥの自伝的側面を反映していることはまちがいないように思う。

フランス人ジャーク・フォレスティとして第一次大戦に従軍し、記憶をなくし、ドイツ人の政治家ジークリートとして頭角を現し、彼を訪ねてきた過去の婚約者ジュヌヴィエーヴと再会して記憶を取り戻し、ドイツ人としての過去のない現在を捨てて、フランスという過去のある未来に帰還する。

ジロドゥはポール・クローデルのように外交官兼文学者であり(ただし、官僚のランクとしては、大使クラスであったクローデルに比べると、ジロドゥは全権公使クラス止まりではあった)、ドイツ文化に深く通じていた。第一次大戦に従軍し、負傷によって生き延び、勲章を得た。

ジークフリート』は戦後のお話ではある。しかし、リアリズムを忌避し、象徴主義的なものに憧れた劇作家にふさわしく、特定の日付が絶対的な要件として想定されているわけではない。しかし、にもかかわらず、ここには戦後の歴史的状況の反響がたしかにこだましている。帝政ドイツを転覆した革命、ワイマール共和国の樹立。普仏戦争以来の独仏の微妙な関係の陰翳が浮かび上がってくる。

ドイツ文化を愛しながら、ドイツ的なものを全面的に受け入れるわけではないし、ドイツ的なものをフランス的なものに優越させるわけではないフランス人のアンビヴァレンスが哀しいまでに浮上してくる。

その一方で、「ジークフリート」神話が下敷きになっていることも明らかだ。はたしてこれがワーグナーの「ジークフリート」なのか、ゲルマン神話における「ジークフリート」なのかはよくわからないけれど、恐れを知らぬ者としてのジークフリートでも、ドラゴンの討伐者としてのジークフリートでもなく、記憶の忘却者としてのジークフリートワーグナーでいえば『神々の黄昏』のジークフリート)であることはまちがいない。

ジロドゥの神話的素材の扱いは、ラシーヌのような古典派による神話の本歌取りとは大きく異なる。ラシーヌにおいてもある種の「現代化」はあるとはいえ、そこでは歴史的アナクロニズムは不可抗力のようなものであったと思う。ジロドゥの場合、歴史的アナクロニズムこそが方法であり、現代化は作劇の条件となる。ジロドゥのジークフリートは、野生児ではなく、洗練された文明人である。しかし、それでいて、どこか神話的な倍音がある。

とはいえ、ジロドゥの真骨頂は、フレームワークにおける神話からの本歌取りの巧みな操作ではなく、個々の台詞が表出する微細な心理分析やその抒情性にある。大きな劇的なカタルシスではなく、瞬間に凝縮されたイマージュにこそ、ジロドゥのテクストの豊饒さがある。その意味で、ジロドゥは、モンテーニュパスカルなどに連なるエッセイストというべきなのかもしれない。

あなたのランプも、あなたを待っている。あなたのイニシヤルの入ったレター・ペーパーもあなたを待っている。あなたの大通りの並木も、あなたの飲物も、流行遅れになった洋服も。なぜだか、私は、それに虫がつかないようにしておいたわ。そして、あの洋服を着て、はじめてあなたは落ちつけるんだわ。ものの食べ方、歩き方、挨拶の仕方、そうしたものがいつの間にか着せる見えない洋服、私たちが子供の感覚で集めた味と色と香りの不思議な調和、それこそ、本当の祖国、それこそ、あなたが求めているものだわ . . . 動物たち、昆虫たち、草木、そして、同じ花から出ても国によって違うあの香り、そういうものをもう一度発見した時、はじめて、幸福に生きられるのよ、たとい、あなたの記憶が空虚でも。だって、そうした動物たちや草木こそ、記憶の織糸なんですもの。(109-10頁)

Ta lampe t’attend, les initiales de ton papier à lettres t’attendent, et les arbres de ton boulevard, et ton breuvage, et les costumes démodés que je préservais, je ne sais pourquoi, des mites, dans lesquels enfin tu seras à l’aise. Ce vêtement invisible que tisse sur un être la façon de manger, de marcher, de saluer, cet accord divin de saveurs, de couleurs, de parfums obtenu par nos sens d’enfant ; c’est là la vraie patrie, c’est là ce que tu réclamess. . . . C’est seulement quand tu retrouveras tes animaux, tes insectes, tes plantes, ces odeurs qui diffèrent pour la même fleur dans chaque pays, que tu pourras vivre heureux, même avec ta mémoire à vide, car c’est eux qui en sont la trame.

あなたのランプがあなたを待ってる、あなたのレターペーパーのイニシャルが待ってる。あなたの並木道の木々、あなたの飲み物、わけもわからないままシミから守った、流行遅れの洋服。そういうものに囲まれて、あなたはやっとくつろげるようになる。この目には見えない衣、食べ方、歩き方、挨拶の仕方が織りなす着物、わたしたちが持ち合わせている子どものような感覚がつかまえた味、色、香りの妙なる調和――そこにこそ本当の祖国がある。そこにこそ、あなたの求めるものがある . . . あなたの動物を、あなたの昆虫を、あなたの草木を、同じ花でも国が違えば変わってくるあの匂いをもういちど見つけられたとき、そのときこそ、あなたは幸福に生きられる。記憶は戻っていないとしても。記憶の緯糸って、そういうものから出来ているから。(私訳)