うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。暗誦の思わぬ効用。

特任講師観察記断章。暗誦を課題として与えたことはない。無理やり暗記させても、思い出しながら言うので精一杯になってしまって、ほかにケアすべきことがなおざりになってしまいそうな気がするからだ。しかし、今日、音読試験をしたあと、試験範囲になっていた一文――Social psychology is the study of the way people think, feel, and behave in social situations――をその場で制限時間3分で暗記し、立って暗誦するという追加課題をやらせてみたところ、予想以上の、というよりも、まったく予期外の、すばらしい結果が得られた。構文の空間的な把握、イントネーションの自発的な表出、身体と音声の自然なシンクロ――視覚情報がシャットアウトされたおかげで、見えているものを音にするという変換作業が、頭のなかにしかないものを表出させるという創作行為に化けたからだろうか。

しかし、偶然うまくいったわけではないはずだ。このクラスはとにかく英語ができない集団なのだけれど、諦めモードにはなっておらず、モチベーションは悪くない。「基礎の基礎からやるから、ひとまずこちらを信頼してやってみて欲しい」と説得してみたところ、わりと言うことを素直に聞いてくれる。

そういうわけで、これまで、構文を丁寧に分析する、音節のカウントとアクセントを徹底して音読する、英語の歌を使って英語のノリを直感的に把握する、を基本方針としてやってきた。ジョニ・ミッチェルのBoth Sides Nowを3週にわたってじっくりやり、ここ2週はビートルズのHelp!をやってきた。そのような下準備が、今日、うまく開花したのかもしれない。

というわけで、教えている側としては、ひじょうによろこばしい日だった。やらせる前は、「クラスの6割ぐらいがそこそこできたらまずまずか」ぐらいに思っていたというのに、やらせてみたところ、クラスの9割以上が出来ていたのである。

けれども、学生たちの実感としては、そこまで確かな手ごたえがあったわけではなかったのかもしれない。授業後にちょっと聞いてみたところ、首をかしげるような素振りが返ってきた。

視覚優先でやると、批判性は高まるし、自意識的になる。聴覚優先でやると、身体と音声のシンクロ度は大いに向上するが、無意識的なところが高まり、やっている側の実感につながりにくいのかもしれない。両者のモードをうまくミックスしながらやっていくしかない。

できる学生を伸ばすのは、ある意味、楽だ。良質の課題を与えて放っておけば、勝手に伸びる。しかし、できないけれどもやる気がないわけではない学生を育てるのは、そうはいかない。手間をかけて手ほどきし、うまく手助けしなければならない。しかし、だからこそ、そのような学生を育てるのは、スリリングで面白い。アナキスト教育者としては、意欲は高いのに能力は残念な状態にとどまっている学び手をケアするのが、正しい道であるような感じもする。

ところで、それらの中間にただよう層――能力はあってもモチベーションが低い、能力もモチベーションも低い――は、いかんともしがたいというのが、正直なところ。