うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。キレた言い訳。

特任講師観察記断章。「こんなふうにキレることを愉しんでやっているわけではまったくない。いつだってキレたあとは嫌な気持ちになる。心が削られる。しかし、ある程度の労力と時間をかければ必ずできることをやってきていない、しかも、特筆すべき理由もなしに――そんな状況を見逃すわけにはいかない。」もはや定番レパートリーのひとつになってしまったフレーズを、その場しのぎでしのぎ切れなかった学生を締め上げるために、詰問調で画面越しに放り投げると、えてして、逆切れ的な謝罪が返ってくる。そしてそれにひどく苛立ってしまう自分に気がつく。

学生からすると、「教師の言うことに従わなかったとき」を叱責ポイントと捉えているのかもしれないが、こちらからすると、思いどおりに学生をコントロールできなかったことではなく、学生が自分自身にたいして不誠実な真似をしていることを哀しみ嘆いているのであり、だからこそ、適当な反応は火に油なのだが、そこはどうもまったく伝わっていないらしい。というよりも、自分ですら、いまこうして書きながらやっとこの理由に気づいた次第である。

「できないことをやらせて、「なぜできない」と責めるようなブラックな真似はしていないつもりです。そもそも、わたしは、この英語必修のコマをみなさんが好き好んで受講しているとすら思っていない。100%のコミットメントを期待してなどいない。しかし、不承不承に取っているものであればなおのこと、その間だけは集中してやるべきではないか。」と語りかけるのだが、これは学生たちに響かない。

「わからないものは楽しめないでしょう。わからないものが楽しくないのはむしろ当然でしょうし、楽しくないものをやる気にならないのも当然でしょう。だから、わからないものを無理やり楽しめとも言わない。わたしがやろうとしているのは、わからないものを少しはわかるものにする手助けをすることです。そうすることで、みなさんが自発的に楽しめるようになり、自然にモチベーションが上がってくるような、そんな状況を作り出すことです。」とその場でふと思いついた言葉(しかし、自分のなかでずっとくすぶっていたはずの言葉)を即興で紡ぎ出しながら、「わりといいこと言ってるんじゃないか」と自分で自分を褒めてあげていいような気がしていたが、学生に届いているのか届いていないのかは、まったく未知数である。

ともあれ、自分の求めているのが、他者の支配や服従ではけっしてなくて、他者の自律性であり、他者の自己統治性であるということが、これを書きながらはっきりと見えてきた。でも、この思いは、まず伝わらないのだよな(まあ、伝える必要はないのかもしれないのだけれど)。