うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。マキャヴェリ的狡知、カント的倫理。

特任講師観察記断章。反抗的=抵抗的な主体になることを学生に勧めるべきか。中堅の地方公立大学における学生の基本モードは従順だ。それは必ずしも自発的隷属ではないし、完全に言いなりになっているというのでもない。「扱いづらい」学生がいないわけではない。しかし、そういう態度にしたところで、意識的に構築された「斜に構えた態度」ではなく、良くも悪くもイノセントな反感だ。どうにも漠然としていて、無垢と無知の混合物でしかない。こういう弱い態度では、下手をすると、狡賢く抜け目ない人に上手く使われるだけの存在になってしまうのではないかという危惧を覚える。ブラック企業で奴隷のように働く労働者を輩出することに加担するわけにはいかない。そんな共犯者にはなりたくない。

だが、狐のようになれとマキャヴェリ的現実主義をささやくべきなのか。他人のなすがままになるのではなく、他人を使えるようになるべきだ、とそそのかすべきなのか。

カント的な定言命法(他人を手段として扱ってはならない)を勧めるのが倫理的に正しいのは明白だし、個人的にもそうするべきだとは思う。しかし、戦後平和教育にたいすニヒリズムが空気として蔓延している2010年代において、「他人にたいする思いやり」はもはや「タテマエ」としてしか受け入れられていないようにも見える。拒絶されるているわけではない。しかしそれはあくまで、その裏にある「ホンネ」ーー異者=よそものStrangerである他人は拒絶してよい、他人は自分に役立つ限りにおいて意味がある、他者は手段であるーーの真実性を開示するためのヴェールとしての機能しか有していないようでもある。こうした非道徳的な状況下で、最悪のシナリオ(他人に手段扱いされる主体)から逃れる道に誘導するための「効率的」なやり方は、カント的倫理ではなく、マキャヴェリ的狡知(または力という徳Virtuの思想)である、というのは、残念ながら、どうも正しいような気がする。

マルクスとザスーリッチの手紙のやり取りが思い出される。ザスーリッチの問い、「共産主義に至るには資本主義を経由しなければならないのか」。マルクスの返答、「必ずしもそうではない」。たしかにマキャヴェリ的なニヒリズムを経由しなくとも、カント的な普遍主義には到達できるだろう。というか、他人を手段として扱える主体が、他人を目的として向き合う主体に変容するかどうかは、自動的なプロセスではない。いや、現代の状況を考えれば、マキャヴェリ的な狡さに留まる可能性のほうがはるかに高いはずだ。こう考えると、「もっと抜け目なくなれ、暗黙のものとして存在しているルールを意識化し、規則の余地を見極め、その裏をつけ」という態度は、教えるべきではないような気がする。

微温的な無反応状態にある学生を刺激するのに何らかの劇薬をぶち込むのは必ずしも悪いことではないと思う。裏から見る態度、すべては権力や利害関係のリゾーム的ネットワークでしかないという冷めた態度は、もしかすると、表向きは性悪説を奉じているようでいて根本的なところでは性善説的なものを信じているのかもしれない地方公立大学の純情な学生たちにたいするショック療法として有効なのかもしれない。教育者としてのプラグマティズムに従えば、奴隷になる存在を作るよりは、奴隷を作る存在を作るほうが、まだ多少は「マシ」かもしれない。だが教育は、どちらがless worseかというような劣性比較級的なものではなく、最上級的なものthe bestで考えるべきものだという点は、やはり、譲るべきではないと思う。お花畑的な友愛主義でも、殺伐とした現実主義でもない、ニヒリズムを越えた先にあるはずの倫理的生ーー批判意識と連帯感をうまく同居させられるような地点ーーに旅立つための出発点を、どこに求めたらいいのだろうか。どこにたどり着くべきかはわかっている、どこから始めるべきかがわからない。