うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

上野千鶴子東大入学式祝辞

上野千鶴子の祝辞ノブレス・オブリージュを喚起してしまっているきらいはないか。つまるところ、上野千鶴子は、東大が、そして東大の卒業生が、社会の支配層に回ることを前提として話を進めているように聞こえる部分がある。

「あなたたちが社会を支配するパワーエリートになったあかつきには、弱者の弱さは生物的な与件ではなく、社会的な人為物だということを正しく理解し、恵まれない弱者が生き延びられる世界を作ってください」と言うことと、どれだけの本質的な違いがあるだろうか。なるほど、すべての東大生がそうはならないだろう。既定路線から外れる者たちもいるだろう。しかし大勢についてはどうなのか。

よき統治者になれ、慈悲深き支配者になれというのは、毒気を抜かれたマキャヴェリ主義にすぎず、左翼的道徳主義とイスタブリッシュメント的エリート主義の奇妙な結合でしかないように思えてならない。 

 

フェミニズムは「弱者が強者になりたいという思想」ではなく、「弱者が弱者のまま尊重されることを求める思想」だというのはそのとおりだろう。けれども、上野千鶴子が東大女子男子の両方を、本当に社会的「弱者」と見ているのだろうか。

弱さを認めましょう、強がるのはやめましょう、というのは正しいメッセージだ。しかし、社会的に見れば、東大生は結局のところ依然として(残念ながら)「強者」ではしかありえないのではないか。ひとりひとり見ていけばそんなことはない。だれもが何かしらの弱さを抱えながら、しかしそれを自ら認めることもできず、社会に認めてもらうこともできず、自虐的に卑下したり、下手をすれば自滅するような道をたどったりするのかもしれない。しかしマスとして、統計的に見た場合、どうなるだろうか。「弱者が弱者のまま尊重される」というとき、ここに東大生一般が本当に含まれているのか。

在日や高卒や障害者という「弱者」が東大にはいる。しかし、彼らもまた――それにしても、自分自身以外に引き合いに出すのがすべて男性というのはどうなのだろうと思ったが、これは東大において女子学生率が2割を超えないことを意図的に反復してみせるという痛烈な皮肉か――別の側面ではかなりの強者となった者ではないか。つまり彼らは、自分ではどうすることもできない弱者的与件(出自、学歴、身体的障害)と、自らの努力によって勝ち取った強者の証(業績、達成)を持ち合わせている。

もちろん、それが悪いと言いたいわけではない。

別の言い方をしよう。彼女は果たして、東大生に、自らを「弱者」として自己認識するように促しているのだろうか。すでに全面的には弱者とは言い難い、というか、弱者という弱音を吐くことを社会が許容してくれそうになり「東大生」というブランドを背負っている新入生たちは、強者と弱者、頑張りが認められた者と認められない者という二分法で話が進んでいくなかで、そのどちらに自らを位置づけるだろうか。かなり曖昧で、かなり微妙で、かなり不確かではあるが、「東大生」という「強者」となってしまっている新入生たちは、どうしたらいいのか。弱者になるのか?

強者弱者は相対的なものにすぎず、あるところでは強者である者がべつのところで弱者であるというのは、たしかに演説でも触れられているとは思う。東大生でありながら、東大の「外」では東大生と言い切れない女子学生たち。それに、東大「内」において東大女子は「弱者」であり、それが尊重されるべきスペースやメンタリティを作っていくべきだというのは全くその通りだ。そこに疑問の余地はない。しかし、上野千鶴子の祝辞は最終的に、東大内の話ではなく、東大と社会の話のほうに着地するし、そこで東大生は、ジェンダーの差異を括弧に入れた一塊の存在として社会に対置されているようにも見えるし、そうなったとき、東大生は「弱者」ではありえないだろう。

ここで問いたいのはないのか、上野千鶴子の祝辞のなかで(というよりは、社会において、というべきだろうか)、東大生一般はつまるところ、「尊重する主体」であって、本当の意味で「尊重される客体」として客体化=対象化されることはないのではないか、という点だ。だからこそ、「自分の弱さを認め」ることによって、尊重される客体への道を開けようというのがこの祝辞のメッセージなのだとは思うが、ここには、強者と弱者を相対化するような第三項(第四項、第五項…)の可能性がほのめかされてすらいないように思われる。

 

東大の入学式の祝辞なのだから、東大そのものを徹底的にディスり、東大の存在理由を根本から脱構築するような言説はさすがに東大当局がOKしないという大人の事情はあるだろう。しかし、東大や日本の大学におけるジェンダーバイアスの話が、東大と社会の問題へと横滑りするところ、大学機関ではジェンダー不均衡の是正を掲げておきながら、東大と社会のヒエラルキーをどこか温存するような気配も隠し持ってもいるところは、ある意味、きわめて「東大的」な態度かもしれない。 

おそらく最大の問題は、「公正に報われない社会」を作ったのが誰なのかをほとんど問い質さないまま話を進めているところだろう。「親の性差別の結果」が一瞬だけ触れられてはいる。しかし東大として本当に考えるべきは、このような公正に報われない社会を作ったことにたいして、東大や東大卒業生がどのような/どれだけの責任を負っているのかという点ではないか。

ここを掘り下げないから、「報われない社会」が所与のものとして投げ出されてしまう。しかしその一方で、ジェンダーバイアスについては社会的構築物であると強調する。こうして、社会構築論(性差別的な社会は作られたものだから、作り変えることができる)と社会運命論(報われない社会はすでに決定してしまっているから、変えられない)が微妙なかたちで溶け合わされてしまう。ジェンダーをめぐる正義や公正の問題が、それよりもさらに射程の広い正義一般や公正一般の問題とのあいだで、微妙な齟齬が生まれてしまう。そしてそのズレから、耳なじみのよい言葉が投げかけられる。

助け合って、支え合って生きてください。

これは心地よく響く。祝辞にふさわしい、励まされる言葉だ。勇気をくれる言葉だ。しかしこれは裏返せば、「そんな社会でうまく生きていきましょう」という個人主義的な処世術のススメであり、「社会そのものを変えましょう」という呼びかけではない。

究極的なところでこの祝辞が行っているのは、ステイタス・クオの肯定ではないのか。悪い世界ですが(あなた/あなたたちは)賢く生きてください、ということではないのか。なるほど、その副作用として世界自体はいまよりも少しずつ公正になっていくかもしれない。しかしそうした漸近的改善の可能性すら、彼女の祝辞のなかでは、副次的なところに留め置かれているように思う。

大学の使命を「知」の生産/獲得に限定しているところに、この祝辞の問題性のすべてが凝縮されている。マルクス主義フェミニズムを掲げた社会学者がよもやフォイエルバッハ・テーゼのかの有名な一節を忘れているはずはないはずだが。「哲学者はこれまであれこれと世界を解釈してきた。重要なのは世界を変えることである。」