鶴見俊輔「方法としてのアナキズム」『鶴見俊輔集9』(筑摩書房、1991)

 

結局は能率的な軍隊の形式にゆきつくような近代化に対抗するためには、その近代化から派生した人道主義的な抽象観念をもって対抗するのでは足りない。国家のになう近代に全体としてむきあうような別の場所にたつことが、持久力のある抵抗のために必要である。(11頁)

 

もし権威主義啓蒙主義がひとしく近代の申し子であるとすれば、前者の抑圧的傾向にたいして後者の解放的傾向でもって対処するだけでは不充分だろう。近代すべてに反旗を翻す必要があるというわけではない。近代を全否定しろというのではない。そうではなく、近代の底のほうで依然として流れている、具体的に息づいている、隠れた部分を思い返すべきなのではないか。鶴見が「方法としてのアナキズム」と呼ぶものは、わたしたち近代人の頑なさをときほぐす思考の実験であり、生活の実験であると言っていいのだろう。確かな手応えのある、揺るぎない確信を抱くことができる参照枠をつくるための方法。

「あれか、これか」というような大上段で振りかざすのではない。隠遁的な静かなアナキズムでもなく、テロリズムという牙をあまりにもむきだしにするアナキズムでもない、べつの道を探ろうというのだ。そうした探求が試みるのは、過去のある時点に戻ることではなく、人間の生をつらぬいて存在している、隠れた地下水脈を明るみに出すことによって、「人間の未来にとって重大な意味をもつようなものとしてのアナキズムをほりおこす」(5頁)作業だろう。

 

近代批判だが、反近代ではなく。理想主義だが、急ぎすぎることなく

近代批判から前近代に退行するのではない。それでは、前近代を近代と同じ俎上で対抗させるだけになってしまう。それでは、わたしたちは結局のところ近代という地平に囚われたままだ。そうではなく、近代が気づいていない、それどころか、そうと気づきながら近代的合理主義や効率主義があえて否認しようとした、深く広く大きな地層とふたたび出会おうとする実験をこそ、試みべきなのだ。自分たちの過去へのタイムトラベルではなく、べつの時間性、べつの感性や情念、べつのメンタリティへのダイブだ。

それはきわめて20世紀的なプロジェクトであると言っていいのだろう。鶴見が近代性のある側面を厳しく批判していることは間違いない。自然をたんなる素材を見てひたすら自然から収奪するような道具的態度、人間を忘れてシステムを完成させようとするあまりはまりこんでしまう官僚制、生きることを素直に楽しむことができないひねくれたライフスタイル、複雑化する社会、権威主義的な国家、そういったものが問い直される。わたしたちはどうもますます生に幻滅するようになってきているらしい。しかし、これははたして進歩なのか、と鶴見は問いかける。

十九世紀までに人間のもっていた確信が、二十世紀に入るとこんなふうに弱くなってくるのは、文明の進歩といえるのだろうか。進歩がないという自覚が深まるという意味では、それは進歩と呼べるだろう。(14頁)

鶴見が進歩史観にたいしてアイロニックな態度を取っていることは明白だ。単線的な時間軸のなか、すべてが徐々に良い方向に発展しくという見方を取らない。それどころか、彼はある種の非時間的な層を想定しているし、その意味では本質主義的なところがある。

人間は(おそらく人間以外の動物もそうだろうが)権力によって強制されて生きることを好まない。権力によって支配される関係から自由になることを夢みることは、あたりまえだ。(3頁)

 この「あたりまえ」という本質主義的な情熱が、素朴な道義的確信を生み出す。鶴見はそうした若々しい倫理的な直感を否定しない。そんな中学生じみたもの、と笑い飛ばす社会人のしたり顔をしてみせることは絶対にない。「権力的支配のない社会などという理想主義的なこと」と大真面目に取り組もうとする(15頁)。

しかし、鶴見はそうした若気の理想主義が陥りやすい罠にも気づいている。そうした確信は、ややもすると、拙速に流れやすい。理想の到来を早めようと思い込みすぎるがゆえに、辛抱強くあることができない。暴力による即時的解決という誘惑に屈しやすい。

しかし、それでは駄目なのだ。ラディカルにいく、しかし、焦りすぎてはいけない。「持久力のある抵抗」のかたちを見つけだし、「まなびなおす」必要がある(11頁)。

 

カスタネダ、ソロー

鶴見がここでカルロス・カスタネダとデヴィッド・ソローを参照しているのは面白い。というのも、ソローはまだしも、カスタネダは、アナキズムの正史――そんなものがあると仮定しての話ではあるが、ウドコックにしてもジョルにしても、ゴドウィンを思想的源流にすえ、それにプルードンバクーニンクロポトキンという流れを並行させ、シュティルナーのような個人主義的潮流を対置するというマッピングを採用しており、これがアナキズム史/アナキズム思想史のスタンダードであると言っていいだろう――のなかでは傍流に入るかどうかというところだろうから。

しかし、この選択は筋が通っている。鶴見が描き出そうとするのは、アナキズム思想史でもないし、アナキズム運動史でもない。アナキズムを経由することによって、「人間の文明を見るわくぐみ」を考え直し、「自然に対する人間のごうまんをこわす」ためだからだ(12頁)。最終的に目指されるべきは、アナキズムそれ自体ではなく、アナキズム思想がどのようなかたちで人間の伝統に根づいているかを明らかにすることである。それは、アナキズムを思想として固めることとはまったくちがっている。アナキスティックな構想の自在性をキープしたまま、自在な行動をつくりだすようなマトリクスがわたしたちのうちにつねにすでに生き生きと息づいていることの気づきを作り出すことである。

世界のいまのありように反抗すること、それは反抗のための反抗ではない。あまりに複雑化しすぎた世界にたいして、それ以外の可能性が可能であることを身をもって証明してみせることである。鶴見がソローやカスタネダの生き方を単に肯定しているのではないことに注意しなければならない。わたしたちはいちど、近代文明から距離を取り、非近代的なものに潜りこんでいく必要がある。しかしそれは、そちら側で安住するためではない。そちら側に行くのは、こちら側に戻ってきて、西洋文明を、近代の能率主義を、20世紀の官僚制や国家主義を、ときほぐすためなのだ。

とはいえ、構えすぎる必要はない。あまりに難しすぎると怖気づく必要はない。小さなところから、自分から、変えていけばいい。あるべき未来を、あって欲しい未来を、すでに生き始めればいいのだ。

われわれは、現代の社会のまっただなかに、ひとりひとりが、自分ひとりで、あるいは協力して、単純な生活の実験をもつべきだ。そこがそのままユートピアになるというのではなく、現代の権力的支配にゆずらない生活の根拠地として、思想の準拠わくとして必要なのだ。(16頁)

重要なのは、試してみることだ。試してみて、新しい感じ方を、新しい考え方を発見する。シンプルにやることが、ラディカルにやることにつながっていく。というの、シンプルにやるというのは、単純化することではなく、複雑さの表層にまぎれて見えなくなっている本質的な部分へと一直線にダイブすることなのだから。

ソローの人間の根底にあるのは、この地上に人間が生きていくひまをたのしむというのはいいことだという感覚だ。そして、なぜそれができないのかを追求しようとする。雨が土をうるおす。それを見てたのしむことからはじめて、彼は彼の政治思想をつくる。この政治思想のつくりかたは、アナキズムにとって重要な方法だと思う。(17頁)

たのしさを思想の根底にすえる。思想や生活が悲しく難しくある必要はない。それに、ここでいう「たのしさ」とは、享楽とは別物である。資本主義的な消費文化が与える神経刺激的な快楽ではない。カスタネダのように、麻薬的なものを用いるにしても、そうした非日常的体験を経由することで、世界との関係をつなぎかえることが目指されている。世界にたいする感じ方を変えることが目指されているのだ。

カラスに変身するなどというのは、ばかげたことに思えるかもしれないが、自然と人間とを新しく結びつけるわくぐみの中で、文明を考えてゆく方法としてこのような情念の形成が意味をもつ。(12頁)

これはもしかすると、マインドフルネスといま言われているようなものにかなり近いのかもしれない。つまり、ここで鶴見が方法として取り出そうとしているものは、現代の消費文化のなかでは(消費文化疲れを表明するエグゼクティヴクラスのなかでは)、まさに鶴見が避けようとした隠遁的な静かさへと、つまり、牙のない、飼い慣らされた商品と、ほとんど見分けがつかないものかもしれない。

 

個人ではなく、集団/伝統として 

マレイ・ブクチンのライフ・スタイル・アナキズム批判には不当な面があったかもしれないが、本質的なところをついていたとも思う。個人ひとりひとりが好きにやるだけでは足りない。個人ひとりひとりの実践が自然に広がっていくと考えるのは楽観的すぎる。

アナキズムの理想を実現しやすい小さな状況に集中するというのはアイディアとして悪くないし、「大きな状況についてだけ考えてゆくとすれば、どのようなアナキスティックな理念も、結局は官僚的な机上地図に転化するだろうし、官僚的支配の一部分にとりこまれてアナキズムとしての活力をなくすだろう」(24頁)という懸念は正しい。批判相手と同じ俎上に乗れば、数のうえで弱い立場にいるアナキズムは、批判相手に打ち負かされてしまう。彼らのゲームで勝とうとしてはならない。ゲームのルールを変えること、それどころか、ゲームそのものを変えてしまうことを目指さなければならないし、そのためには、べつの道を探り当てるべきだ、という鶴見の方法論は正しい。しかし、ここで表面化するある種の潔癖さ――あらゆる原則を警戒し、あらゆる固定化を忌避し、自在性や自発性を追い求めようとする態度――は、効率的に組織されたものにたいして脆弱でもある。この弱さは倫理的な高さの証であるだろう。しかし敗北主義的ロマン主義に酔うわけにはいかないはずだ。

方法としての楽観論は充分ありえるし、おそらくアナキズムはほかのどんな思想にもまして、戦略的楽観論とでもいうようなものを必要としているだろう。しかし、楽観論的な流動性や自在性とともに、何かしらの持続性や恒常性も必要ではないのか。「持久力のある抵抗」は、即興だけでは不可能である。

鶴見はどこか否定的なトーンで寄り道的にしか言及しないが、クロポトキンやハーバート・リードの「抵抗を内側から支えるヴィジョン」(18頁)は、再考される必要があるだろう。「みずからの内面の革命像を人に見られるように書きのこした見事な作品」であるからというだけでなく、それらは、「みずからのつくりだした権力」を「圧迫の道具として使わないため」に、みずからを「新しい用途」つけるための構想となっているのではないと、わたしには思われるからだ。いかにして自ら作り出したものをみずからときほぐしていくかの省察になっているのではないかと、思われるからだ。構成原理としてというよりも、反‐/脱‐構成原理として、そのような「革命像」のヴィジョンを再読するべきだと思うのだ。

だとすれば、わたしたちは、伝統というものを考え直す必要がある。そしてこれは、鶴見の態度と完全に呼応する。過去の遺物としてではなく、いまもここにある生きた実践としての伝統を取り戻すことだ。伝統すべてを受け入れるのではなく、そのなかの(アナキズムからすると)肯定的なところを救い出していくことだ。クロポトキンの『相互扶助論』が重要なのは、クロポトキンが、わたしたちの本能に利他的なところがあると証明しているからではないだろう。相互扶助の感性や実践が、夢想家の妄想でもなければ、奇矯な一個人による希少な実践でもなく、動物界にも人類史にも偏在する「社会的事実」であることを、わたしたちにありありと思い出させてくれるからである。

鶴見の論は、個人主義的な方向と同時に、共同体的な方向にも開かれている。だからこそ、鶴見は、すでにある実践――それはいわば人類学的なものであり、全‐共同体的とまではいかないとしても、集団的なものであって、孤立した個人によるものではない――のなかに、可能性を見いだしていくこうとする。いまある国家は否定するが、いまある伝統のすべて否定するわけではない。

ドン・ファンはおもに薬用植物について述べた。しかし、彼が言うように、道には幾百万の道がある。酒ののみようも、坐りようも、茶ののみようも、それぞれが道として啓示されたことがあった。座禅を工夫した人も、これを心ある道と考えて、つくったのだろうし、宮沢賢治にとっての肥料設計事務所柳宗悦民芸運動も、当時の日本の国家の政策にたいする時、そういうひそかな意図をもっていたのだろう。柳宗悦が『茶の改革』などにおいて茶道の家元制度をつよく批判したのは、茶ののみようによってひらかれる自由な道が、国家の独占体制の配線にくみこまれてしまうことへの警告ではなかったか。(12頁)

鶴見の「方法としてのアナキズム」を、読みの理論として読み替えること。解釈学的な方法として練り上げること。それは、すでにあるもののなかにアナキズム的なものを読みこみ、すでにあるものの底に「アナキズムの岩床」(6頁)を作り出していく作業になる。おそらく、ハイデガー的な意味での「発見」行為――すでにあるものにいまだ被さっている覆いを取り去る――というより、ニーチェ的な意味での「創出」/「捏造」行為にはるかに近しいものになるだろう。見つけるだけでは足りないからだ、作り変えなければいけないからだ。

ニーチェは『反時代的考察』の第二論文のある個所で、「みずからが生まれ出でたかった起源を遡及的に作り出す」可能性について論じている。「いまだ‐ない」創作的な偽史と、「すでに‐ある」非時間的な伝統(相互扶助の時間的かつ空間的な遍在)とを結び合わせるところにこそ、「そうあってほしい」をいまここに引き寄せる「方法としてのアナキズム」の可能性が秘められているのではないだろうか。