うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

非常勤講師観察記断章。間違いを指摘されて謝ることの不可思議さ。

非常勤講師観察記断章。間違いを指摘されて謝ることの不可思議さ。今日、オーラルコミュニケーションのクラスで中間試験をやった。音読の試験で、ひとり3分にも満たない簡単なものだ。試験後にきわめてフランクな口調で「あの単語の発音が違っていたよ」「あそこのイントネーションはそうじゃないよ」というような指摘をすると、どの学生の口からも一様に「すみません」という言葉が吐きだされた。

しかしいったい何に謝っているのだろう? 

学ぶこととは、自らと知の関係を築き上げていくことだ。もちろんそのプロセスにおいて教師の手助けを借りることもあるだろう。しかし突き詰めていけば、学びは間主観的なものではなく自己言及的なものであり、「わたしのもの」ではないのか。だれかの「ため」であったり、だれか「から」のものであったりもするだろう。しかしそれはつまるところ、わたしのものをだれかのために使うようなものであり、プルーストが『見いだされた時』で述べているように、利他主義は利己主義であることによって初めて真の意味で開けてくるのではなかろうか。

けれど、今の学生を見ていると、そういう「身勝手さ」の所在をどうもうまくつかまえられない。身勝手さがないというのではない。身勝手さすら浮遊しているとでも言おうか、我儘さすら「空気を読む」ことによってつなぎとめられているとでも言おうか。

自我がないわけではない。それに、レヴィナスフーコーを敷衍しつつ複数的に他的なものが先行するなかで主体化の理論を再/脱構築するバトラーの議論に従えば、わたしたちの根幹にあるのは、自ではなく他である。それは閉じているのではなく開かれている。だから、つねに直感的かつ本能的に他の反応をフィードバックしようとする学生たちは、きわめてコンテンポラリーな生を生きていると言っていいのかもしれない。

だが、ここまで他にたいする反応の感度が良すぎる生は生きづらくないのだろうか。ここまで他に開かれ、他に(脊髄)反射的に対応することは、他への構造的な依存ではないのか。もちろんそうした構造的依存の効果のアンサンブルとして「わたし」とでもいうべきものが事後的に立ちあがってくるのだと言うこともできるけれど、ここには何か恐るべきものがあるような気がする。

逆切れ謝罪。たとえば授業中に私語をしていたり、課題をやるべきときにやっていなかった学生に注意をすると、逆切れ的に「すみません」と聞かされることが多々ある。謝ることは現代における処世術なのか。

奇妙な謝罪だ。というのも、ここで目指されるのは問題の解決ではないし、原因の究明でもない。それは波風を立てないことであり、怒っている者をどうにかやりすごすことだけが目論まれている。相手の感情の強度と正面から向き合わないために、とりあえず謝る言葉を口にする。

怒っている相手の感情をなだめるために。だがそこに、相手の魂を安らげようというような意図はないだろう。謝ることはその場しのぎである。他者との永続的な関係の拒否であり、他者と深い関係にはまりこんでいくことの拒絶である。

謝罪に見えない謝罪が行われるのは、なされた悪のためでも、悪の犠牲者となった者のためでもなく、いま自分に注がれている負の感情に汚染されないためなのだ。あたかも謝罪においてもっとも自分勝手になるかのようではないか。大切なのは、謝罪対象となる客体ではなく、謝罪主体である自分のほうなのだ。

謝るのはだれのためでもなく、自分のためなのか。自分を幸せにするためではなく、自分が不幸せにならないための否定的な技術なのか。だから、逆切れ謝罪は、謝罪から逸脱したものというよりは、ただ単に「うまくない」謝罪であるような気がする。裏を返せば、「うまい」謝罪も、逆切れ謝罪と基本的に同じものではないかという疑いを抱いてしまうということになるかもしれない。つながることの拒否として謝罪がある。