うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。実用英語的なテクストからいかにして人文学的な雑談的脱線に学生たちを引き込むか。

特任講師観察記断章。実用英語的なテクストからいかにして人文学的な雑談的脱線に学生たちを引き込むか。

今日の遊び。the sulfur is present in fuelのis presentを別の表現で言い換えるとどうなるかという問いかけをした。こちらとしては、existを想定していたのだけれど、訊いていくと、presentをnow(現在)の意味で取っている学生がいたり、containやincludeのように包含関係を転倒させてしまっている(fuelがsulfurをcontain/includeするのであって、その逆ではない)学生がいたりと、なかなか答えにたどりつかないでいると、とある学生がis foundという想定外の答えを提出する。それを受けて、「こちらが念頭に置いていたのはexistですが、それもありですね」と切り返しつつ、黒板に「exist / be found」と書く。

それを見た瞬間、これは存在論/認識論の話につなげられるなとひらめき、3分ほどにわたって壮大な脱線をする。

「なにかが「ある」というとき、そこに観察者を想定するかしないか、これは西洋的な考え方の根底にくる態度です。たとえば、誰も聞いていない森のなかで鳴り響く音、誰も聞いてない音は存在するといえるのかどうか。人間が認識したもの、できるものにかぎり、その存在を認めるという態度が一方にあります。しかし他方には、モノ自体がそこにある、という態度も西洋のなかに存在しています。たとえば、the desk stands thereのような、日本語話者からすると、意外と書きにくいセンテンスに、そのような意識があらわれていると言ってもいい。前者はepistemology、日本語で認識論と呼ばれ、後者はontology、存在論と訳されます。雑な言い方をすれば、日本の和歌的な感性は、認識論的なものかもしれないですね。季節の移り変わりにもののあわれを感じるというのは、まさに認識者の体感にほかならないでしょう。さて、では、西洋において、存在を保証してきたのはなにか。認識論と存在論の亀裂、誰も認識していないものも存在しているということを可能にしてきた装置はなにか。神、ということになるはずです。つまり、人間が誰一人見聞きしていないとしても、神はすべてを認識している、というわけです。だからこそ、神が死んだといわれる近代、神という世界を安定させる重しが取り払われてしまった近代において存在論をやるというのは、かなりアクロバティックで、20世紀を代表するドイツの哲学者であるフッサールハイデガーの議論というのは、まあ、なかなか危ういところがあります。」

というような、十全に伝わるとは到底思えない雑談は、基本的に、その場の思いつきでやるものなので、もうすこしきちんと準備してやったらもうすこし通じるのかなと思うのではあるけれど、英語教員としての自分の役目は、この手の具体的な知識の伝播というよりも、このような知の世界の存在を身をもって例示することにあると思っているので、即興的で不完全な雑話で十分なのではないかという気もしている。とはいえ、この手の話をした授業が終わった後、その続きを聞きに来る学生は絶えていないのである。