うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。「お世話になっております」

特任講師観察記断章。授業日程についての学生からの質問メールの一行目に「お世話になっております」と書いてあるのを見ていろいろと考えてしまう。頭に浮かんだのは「敬語が使えない現代の学生」というありきたりの批判ではない。現代日本語における定型表現の陳腐さとその慇懃無礼さについてだ。

英語を和訳させるのを聞いているとつくづく思うのだけれど、学生たちの大半は母語である日本語ですら恐る恐る話しているかのようだ。彼女ら彼らが日常で友達相手に使う日本語はそんなふうにおっかなびっくりでもないのだろうけれど、教室というパブリックな空間で教師という目上の存在に使うオフィシャルな言葉となると、ほとんど外国語のように「遠い」ものになってしまうのかもしれない。パブリックな言語ゾーンが腑に落ちるところまで腹に落ちてもいなければ口に馴染んでもいない、だから、パブリックなところで語らなければいけない事態に追い込まれると、マニュアル化された言い回しに逃げるか――それは一応は世間で広く使われる「安全」なものであるし、インパーソナルなものであるから責任転嫁もできる、つまり、語っているのは「わたし」ではなく「常套句」であると主張することで言責を免れられる、というわけだ――、私的言語を無理やりパブリックに仕立て上げたような不自然なものになるか、パブリックでプライヴェートなフレーズをぼそぼそとつぶやくしかないのだろう。

学生の人生経験不足がこの問題の根底にあることは確かだけれど、それだけではないと思う。学生たちには、パブリックなコミュニケーションをしようというモチベーションがそもそも希薄であるように感じる。それはつまり、自己と他者の差異を架橋するような骨の折れる作業こそがコミュニケーションであるという意識が薄いということを意味しているのではないか。コミュニケーションは楽で楽しいという考えを広めることに反対はしない。きっとそのほうがいいだろう。しかしそういうイメージしか教えないことは、学生をテーマパーク的な安全地帯に閉じこめることだ。昨日、「英語で誰とどんなコミュニケーションを取りたいのか」と学生に尋ねたところ、「堅い話とか難しい話ではなくて、楽しくとりとめもない話がしたい」という答えが返ってきた。この発言の裏にあるのは、同質的な日本社会における掘り下げない対人関係の普遍化でなくて何だろう。差異を前提とした社会におけるタフなネゴシエーションとしてのコミュニケーションというイメージがここには全く欠けている。しかし、そうした辛くて難しいコミュニケーションがなければ、本当の意味での「異文化コミュニケーション」は、日本に興味のある異文化の人間と日本でコミュニケーションをするという「イージーモード」ではなく、日本になどまったく興味がないどころか日本にたいして敵対的ですらあるかもしれない異文化の人間と日本ではないどこかでコミュニケーションをするという「ハードモード」をプレイすることは、まったく不可能だろう、というようなことを「お世話になっております」という一文を見て考えてしまってせっかくそれなりに興が乗り出した翻訳作業が一時中断されてしまった。