うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

芸術と感動(ブレヒト「芸術、あるいは政治?」)

「芸術そのものが人間の運命に揺り動かされないなら、どうして芸術が人間を感動させうるか? ぼく自身が人間の苦しみにたいして無感覚でいるなら、ぼくが書くということに、どうして人びとは胸をひらきえよう? その苦しみを抜けだす道をかれらのために発見するように、ぼく自身が努めないとしたら、ぼくが書くための道を、どうしてかれらが知りえよう?」(ブレヒト「芸術、あるいは政治?」)

 

異化作用といったブレヒトが感動について語るのかと思ったが、よく考えてみれば、ブレヒト脊髄反射的に作品に感動させられること(現代で言えば、感動の押し売り的な作品、「泣ける」作品がやっていることがこれに相当するか)に反対なのであって、パフォーマンスに感性的、感情的に反応することそれ自体を完全に禁止しているわけでもはないのだろう。

ある意味、陳腐すぎる言明ではある。作り手と受け手の相補性や相同性(水平性)を言っているだけのような気もする。しかし、これが30年代ファシズムを背景にして書かれたことを考えると、作り手と受け手の非対称性(垂直性)を批判している――おれは感動してないけれど、お前は感動しろ、支配者であるわたしはこんなことを信じてはいないが、被支配者であるあなたたちは信じなさい――のだろうかという気もしてきた。つまり、観衆は操り人形であり、芸術家はその糸を操る存在である、というようなモデルを批判しているのかもしれない。

この問いはきわめて現代的だ。というのも、AIの芸術が感動的かどうかということを考えた場合、AIはまちがいなく受け手と同じようには感動しないだろうし、共感もしないだろう。しかし、微妙なのは、作り手(AIであれ人間であれ)が感動していなくとも、受け手を感動させる(すくなくとも比喩的にポルノ的な意味で感情を興奮させ、肉体的反応を引き起こす)ことが可能であるという点だと思う。ここには、原因(作り手の感動)と結果(受け手の感動)のある種の分裂ないしは誤認がある。

ブレヒトがやや素朴なまでの芸術源泉主義――芸術(家)の感動が始まりにある――に傾いているように見えるとしたら、現代は結果至上主義――受け手が感動できれば、それがどう作られたか/なにが作ったかは関係ない――に傾きすぎではないだろうか。

なるほど、結果至上主義には、芸術家の特権性の否定という側面、芸術を芸術家のコントロールから解放するという肯定的側面もある。それはまちがいない。しかしそれは同時に、芸術を商品=製品につなげる回路でもあると思う。商品の価値は使用価値にあり、その使用価値を作り出したのが誰であるかは問題にならない、奴隷労働によって作り出されようと、iPhoneの機能は損なわれない、というように。

しかし、真に興味深いのは、現代はこうした結果至上主義に傾いているにもかかわらず、芸術家源泉主義を捨てていないのではないか、という点だ。というより、結果重視という姿勢によって、原因重視の姿勢はむしろ強化されているようにも思うのだ。感動コンテンツを作り出す人間が、それ以外のこと(たとえば政治的発言)をすることを禁じる傾向は、その証左ではないだろうか。

「芸術家は芸術だけやってろ」という中傷的意見は昔からあったはずだし、決して最近の発明ではないはずだけれど、いまそれが強く戻ってきているような気がする。消費者はある意味で結果の最大化を求める。消費者はコスパを重視するし、きちんと感動させてもらいたいのだ。だから、その感動を汚したり減じたりするような創作者の振る舞いはすべて猛烈な批判にさらされる。こうして、コンテンツ作成者はまさにますます成功の奴隷になっていくのではないか。成功するほどに、作成者は、消費者が是認することしかできなくなる。

この負の連鎖から抜け出す答えがこのブレヒトの発言にあるかというと、ちょっといろいろ考えてしまうけれど、これらの問題(AI的な芸術、霊感的な源泉を持たない結果しかない芸術、消費社会とSNS世界における受容と創作)を考えるうえでの取っ掛かりにはなるような気がする。