うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

指揮者の学び、指揮者の教え:ジョン・マウチェリ『指揮者は何を考えているか』(白水社、2019)

教育者でもある指揮者が書いた指揮の神秘と現実についての書

奇妙というか、不思議な本だ。ここでは率直さと神秘さが共存している。学究的姿勢とノスタルジーが共鳴している。

ジョン・マウチェリはレナード・バーンスタイン門下といっても差し支えないであろう系譜にいる人物で、世代的にはマイケル・ティルソン・トーマスあたりと同じになるが、その音楽観にはもしかするとバーンスタイン以上に19世紀的なところがあるのかもしれない。バーンスタインが影響を受けた2人の指揮者クーセヴィツキ―とライナーについて言及しながら、それぞれの系譜をさかのぼってその源泉にワーグナーを位置づけるとき――ワーグナーからニキシュからクーセヴィツキ―という系譜と、ワーグナーからR・シュトラウスからライナという系譜ー――、マウチェリはおそらく、彼自身もまた、19世紀に連なる音楽家たちの空気のなかに生きていることを、ほのめかしているのだろう。英語の原題 Maestros and Their Music[巨匠たちとその音楽]は、そのことを端的に示している。

しかしながら、マウチェリが19世紀的な巨匠に思いをはせるのは、彼らの暴君的な振る舞いをなつかしむためではない。なるほど、マウチェリは指揮者が暴君的に振る舞った理由を理解しようと努めるが、それを現代において再演する意義を力説しようとはしないし、それを彼自ら実行しようという気はさらさらない。

彼が過去の巨匠から何かを引き継ごうとしているとしたら、それは彼らの音楽観である。ほとんど宗教的と言いたくなるような融合体験としてのコンサートである。演奏家としてであれ、聴衆としてであれ、ひとつのイベントにともに参加するという、奇跡のような出来事である。マウチェリにとって、音楽は世俗的なものを超えるものである。

マウチェリが指揮者として優れているのかどうかは、彼の演奏を聞いたことがない以上なんとも言いようがないけれど、本書の執筆者であるマウチェリが音楽家として深い知見を持っていること、音楽をなにか全人的な、すべてを包括する宇宙的な出来事として捉えているのだろうということは、まちがいないと思う。だからこそ、本書は、たんなるゴシップ本でも、たんなる技術論でもなく、どうやって指揮者になるのかというキャリア指南書でもなく、指揮者という生についての深い省察になっているのだ。

しかし、そのように音楽の神秘を語る一方で、マウチェリの語りはびっくりするぐらい率直に、現代の音楽業界における実務的な側面について語るし、旅芸人としての指揮者の生のみすぼらしさを赤裸々に描き出す。

音楽を心象風景と結びつけながら語る一方で、楽理的な側面や実証的な側面から、事細かに語る。たとえばマーラー交響曲4番の冒頭のフルートと鈴の音のリタルダンドがオーケストラ全体に当てはまるのかどうか、であるとか、ガーシュインの『ポギーとベス』のオリジナルバージョンにおける幕同士やアリア同士の長さのつり合い、であるとか。

実際の上演において出演者の誰もが遭遇せざるをえない難所についての具体的な説明があるのは、とても貴重である。たとえば『トゥーランドット』の2幕のトゥーランドットの初登場のシーンの難しさを、マウチェリは音楽的、演劇的、演出的側面から、丁寧すぎるほどに描き出していく。音がどのように聞こえ、歌手がどのように見え、どのような采配を指揮者は求められているのかを、わかりやすく、しかし音楽的に意味深いかたちで書いている本は、今までなかったのではないか。

精神論と技術論をひとつの分かちがたい事柄として語るマウチェリの本は、なるほど、数多くある指揮についての本のどれとも似ていない。指揮者本人が情報元となる興味深い楽屋裏的エピソードがあるが、ゴシップ本ではない。マウチェリの自伝のように読める箇所も多いが、マウチェリが語るのは、「彼の」指揮法でもマウチェリという指揮者個人でもなく、指揮者という職業一般のことであり、指揮者という職業の歴史であり、指揮者という職業を必要とするようになった音楽の歴史である。

こうした書き方は、おそらくマウチェリが教師として長年勤めてきたということと関係しているではないだろうか。つまり、マウチェリは本書を、たんなる自伝的回想としてではなく、教育のための素材として提示しているように思うのだ。ここでは、指揮者になるために学ぶべきことと指揮者として教えるべきこととが、学び手であると同時に教え手でもある指揮者という二重の生が、模倣すべきモデルとしてではなく、ひとつのあるべき可能性として、わたしたちに提示されている。

 

イメージとテンポの問題

音は音としてあるが、そこにどのようなイマージュや精神性を読み込むかで、そのようなヴィジョンをもってオーケストラと対峙するかで、最終的に出てくる音は変わる、とマウチェリは固く信じている。

音を心象風景と捉えるという印象主義的な立場は、ピエール・ブーレーズ的な構造化された音響としての音楽という立場とは一線を画する。もちろんマウチェリは印象主義一辺倒ではなく、楽理的に音を捉えた後で、そこに何らかのイメージを読みこもうとしているのだけれど、こうした音楽の語り方は、科学的というよりは文学的で、もしかするとプルースト的と言ったほうがいいスタンスかも知れない。

マウチェリは基本的に解釈の多様性を支持するのだけれど、それは、指揮者の恣意性を許容するためではなく、楽譜というメディアの不完全性のためである。だからこそ、マウチェリは演奏という現場で音を変更することを厭わなかったマーラーストコフスキーを支持するのだ。マウチェリは原典にこだわるけれど、原典信者ではない。音楽とは、作曲家の頭のなかで完成しているのではなく、音としてオーケストラによって実際に鳴り響いたものだからである。学究肌でありながら現場主義を柔軟に取り入れる、それは、彼がなによりもまず、音楽家だからだ。

 マウチェリの音楽づくりの根本にあるのは、旋律でも、リズムでも、響きでもなく、テンポではないだろうか。それはほとんど直感的なものなのだと思う。ブーレーズのすごさは、澄んだ響きというよりも、個性的なテンポの動かし方にあるという見方は、かなりユニークだ。

しかし同時に、テンポにたいする議論は、きわめて学究的で、分析的で、知的なものである。彼はヴェルディによく言及するけれど、それは、長命の19世紀作曲家が、プリマの時代から指揮者の時代まで、さまざまなスタイルの変遷のなかで仕事をしたからであり、メトロノームと慣習的な速度表記とを合わせ技で使ったからである。それは、客観的に測定可能で、そうであるがゆえに、感性的で主観的な言葉を楽譜に書き込んだヴァーグナーとは大きく異なる態度であったけれど、ロッシーニ・クレッシェンドのように、指揮者を必要としない一定スピードのなかでの反復的盛り上がりとも違うものであった。ヴェルディの音楽は、基調となる速度をメトロノームで設定する一方で、その内部での加速や減速によって、 音楽を作っていったわけだけれど、そうした速度変化こそ、指揮者という存在が必要とされた理由でもあった。

マウチェリ自身は、ストコフスキーマーラーのように、音の改変を認めるべきだという立場であるのだけれど、それは原典重視の現代においては、なかなか理解されないものだ。しかし、音の改変は是認しがたいとするのであれば、なぜテンポについてはそうでないのか、とマウチェリは問う。音を変えてはいけないというのに、なぜテンポの改変は指揮者の自由であるかのように語られるのか。これは深く鋭く問いかけだ。

ひとつの曲の中で、音符やリズムを変えたりしたら通常大変な非難を受けるのに、不思議なことに、指定されたテンポを無視してもまったくかまわないらしい。実際、メトロノーム記号の数字に言及するのは、たとえそれが曲の構成にかかわる根本的な問題であっても、非音楽的だとみなされてしまう。(192頁) 

本書における隠れたテーマのひとつは、テンポを、指揮者に許されている自由の領域というよりも、作曲者が確定しようとした必然の領域として、捉え直そうという試みであるように思う。

 

シリアスだとはみなされていないシリアスな指揮者

自伝、音楽史、興行史、録音、マネージメント、アナリーゼ、舞台演出、楽譜校訂、批評や聴衆とのつきあいかた、などなど、指揮者の生のほとんどすべての側面をカバーしようという百科全書的な方向性のせいで、本書がやや散漫な印象を与えることも否定できない。

本書には微妙な歪みもある。音楽を無視した現代的演出にたいする苦言は、マウチェリをマレク・ヤノフスキ―のような指揮者と結びつけるかもしれない。彼らの攻撃のターゲットは、音楽的要素と演劇的要素を有機的に融合させようとしない現代的傾向である。事実、彼は戦後の新バイロイト様式を否定しないし、あの抽象的な舞台は、ブーレーズの脱映画的で脱映像的な指揮をこそ、求めていたとすらほのめかすのだけれど、それは彼が目指す路線ではない。

そこまで明言していないが、マウチェリが20世紀のヨーロッパの前衛にあまりいい印象を持っていないのはまちがいないと思う。実際、彼は20世紀の同時代音楽について積極的に語るけれど、そこでブーレーズのようなヨーロッパの前衛が取り上げられることはない。それは当然ながら、ブーレーズのような音響をそれ自体として磨き上げようという立場は、音響に心象風景を重ね合わせようとする印象主義的な態度と両立しがたいからだろう。

オールディーでノスタルジックなところを見せておきながら、同時に、映画音楽や映像とのコラボレーションの芸術的価値をどうにか認めさせようとするマウチェリの姿勢には勇敢さがただよっている。

けれど、そこにはどこか苦い余韻もある。いわゆる大指揮者になれなかったマウチェリの恨み節というわけではないのだけれど、ポップス的な音楽であるとか、映画音楽やそれに隣接する音楽を一度でも振った指揮者は、業界において、シリアスな音楽家とはみなされなくとほのめかすとき、マウチェリは彼自身のキャリアの光と影の両方を、さりげなく、わたしたちのまえに並べて見せる。

映像をスクリーンに映し出しながらそこに音楽を後追い的に伴奏させようという試みの音楽的意義を語るとき、マウチェリは決してルサンチマンを語っているわけではないし、ハリウッド・ボウルでラフマニノフのピアノロール録音に生オーケストラをかぶせて時空を超えた協奏曲での協演を果たしたと語るとき、マウチェリは現代におけるオーケストラ演奏が技術と協力することで成し遂げられる新しい可能性が生き生きと楽し気に描き出されているのではあるのだけれど、同時に、自らの芸術的行為が理解されないことにたいする哀しさもただよっている。それを読むと、どこか寂しい気持ちにさせられる。

映画や亡くなったアーティストの演奏に音楽を付け、十九世紀の第一世代の指揮者たちを直接知る指揮者たちの演奏を「ゴースト」しながら、私は多くを学んできた。そのためのトレーニングは過酷で、評価もされなかったが、指揮者なら誰でも、過去のアーティストたちから学んだことを普段の演奏に生かせる可能性がある。こうした仕事は芸術的な名誉に欠けるものではまったくなく、謙虚な姿勢と相手を受け入れる気持ちで行なう、大変に難しい仕事である。なぜならば、仕切っているのは彼ら死者なのだから。(247頁)