フォーレとサン=サーンスは、一八七〇年頃までは、その当時末だ色濃くのこされていたロマン派様式、一八八〇年代には世紀末様式へと進展してゆきつつ、それぞれの作品を築き上げてゆくが、一九〇〇年頃から二人の方向性は全く異なってしまうことに注目すべきである。歴史上のこの二人の音楽家の個々の立場は、著しく変化するのである。フォーレは明らかに、ロマン派の音楽が終わりラヴェルやドビュッシーの近代の音楽に移り変わる二十世紀の転換期に位置していたのだ。一方、サン=サーンスは古典的な伝統を保持するにとどまっており、表面化してきた確信には驚愕の視線を注いでいた。フォーレはドビュッシーのもたらした音楽語法の革命に恐怖心を抱いていたのだ。(ジャン=ミシェル・ネクトゥー「序論」『サン=サーンスとフォーレ――往復書簡集1862-1920』49‐50頁)
ジャン=ミシェル・ネクトゥーは『サン=サーンスとフォーレ――往復書簡集1862‐1920』に寄せた序論のなかで、ふたりのフランスの音楽家の関係を以上のようにコンパクトにまとめているが、これはまったく的を射たものであるように思う。
シャルル・カミーユ・サン=サーンス Charles Camille Saint-Saëns(1835-1921)
ガブリエル・ユルバン・フォーレ Gabriel Urbain Fauré (1845-1924)
サン=サーンスにとってフォーレは、1861‐65年にかけて、ニデルメイエール音楽学校で教えていたときの生徒のひとり。サン=サーンスにとってフォーレは大切な教え子のひとりであり、教え諭す対象、導くべき相手であった。
厳しい批評をするためには、好きではないものの価値を尊重することを覚えなくてはいけません。(サン=サーンスからフォーレへの手紙、19041124『往復書簡集1862-1920』138頁)
しかし、先生としてのサン=サーンスの態度は、厳しい優しさにあふれている。
私へ返事を書くことを、かたく禁じます。一日中仕事をしている時は、手紙を書くことがどれほど妨げになることか、私にはわかります。労力を惜しんでください。(サン=サーンスからフォーレへの手紙、19080901『往復書簡集1862-1920』158頁)
しかし、10歳しか年が離れていないせいもあるのだろう、ふたりは、互いに敬意を抱く同僚でもあった。そして、先生から生徒にたいする信頼は揺るぐことがなかったのである。『往復書簡集』の編者ネクトゥは次のように書いている。
おそらく、最も注目に価すると考えられることは、サン=サーンスがたとえフォーレをもはや理解しなくなっても、彼を大家と見なし続けたことであろう。フォーレは実際、サン=サーンスの作品の明快で公正な性向を、常に保っていたが、サン=サーンスは、かつての弟子の美学的進展を追いかけることはできなかった。彼はこのことを、実に率直に告白している。この時代のもっとも理知的な音楽家は、あきらめて、何もしなかったのである。フォーレへの友情があったればこそ、サン=サーンスは思い煩うことなく、この事実を冷静に受けとめられたのだ。(「序論」『往復書簡集1862-1920』27‐28頁)
サン=サーンスはルネサンス的な全人的天才だった・ミヒャエル・シュテーゲマン『サン=サーンス』によれば、サン=サーンスは作曲家にして演奏家であったばかりか、詩人であり、劇作家であり、天文学者であり、哲学者であり、博物学者(ラマルクの分類学とダーウィンの進化論を擁護した)であり、考古学者であり、民族学者であり、素描家や漫画家でもあった。
傑出した演奏家であった。初見能力、即興能力、編曲能力に秀でており、オーケストラスコアをピアノで弾きこなし、オルガンの即興演奏を得意とした。
音楽史家、音楽学者の顔もあった。ラモーやグルックの全集版にかかわっている。
愛国派で政治家的なところもあった。普仏戦争に従軍し、1871年に国民音楽協会を設立。フランス音楽の普及に尽力している。
サン=サーンスの伝記を読んで思ったのは、J・S・ミルのことだった。ミルは英才教育を受けた神童だったが、それは家庭教育の賜物でもあった。ミルは社会生活を奪われた少年だった。サン=サーンスにもそのようなところを感じる。母たちの愛に窒息しそうになっているところがあったように感じる。
もうひとり思い出した人物がいる。ピエール・ブーレーズだ。ブーレーズもまた、多彩な才能の持ち主だった。作曲家であり、指揮者であり、文筆家であり、IRCAMの創設者であった。音楽史に名を残す作品をいくつも書いた。しかし、指揮者として、組織の長としての仕事に圧迫されたのか、作曲家としては大成しきれなかったきらいがあるようにも思う。能力がありすぎたがゆえに、仕事が分散してしまったきらいがある。
サン=サーンスを器用貧乏というのはあまりに不当な評価だが、現代から振り返ってみた場合、作曲家としてのサン=サーンスの全貌はひじょうに見えづらい。交響曲でも、協奏曲でも、室内楽でも、オペラでも、音楽史に残る名曲を作ったが、決定的な大傑作をものにしたのか、音楽史の転換点となるような問題作を書いたのかというと、どうだろう。
サン=サーンスは19世紀初頭から中期にかけての音楽的のロマン主義の終着点ではあり、モダニズム的な音楽を作り出した次世代に開かれた扉ではあるが、彼自身は音楽史のなかで行き止まりを体現していたのではないかという気もする。サン=サーンスの弟子たちは、サン=サーンスのおかげで当時の現代音楽に開かれていったけれど、サン=サーンス自身の音楽を継続したわけではなかったのではないか。
とはいえ、サン=サーンスは19世紀後半から世紀末前の時期においては、まぎれもない「現代音楽家」であったはずだ。ベートーヴェンのような古典的ドイツ音楽の系譜をフランスに移入し、同時代的な前衛と言うべきワーグナーを受容しつつも、ドイツ様式の模倣には終わらない形で交響曲のようなジャンルで作曲した。ドイツびいきのフランス・ナショナリスト。
サン=サーンスは長く生きすぎた。20世紀におけるサン=サーンスは時代に取り残されていた。彼の和声感覚はあまりに安定的なかたちで古典的に確立されており、世紀末における調性のゆらぎや踏み外し、20世紀初頭における調性の解体をフォローすることができなかったし、そもそも彼にはそうしたいという欲望もなかったのだろう。
シュテーゲマンが指摘するように、サン=サーンスは文学的な側面を多分に持ち合わせていながら、同時代の高名な詩人たちの詩に歌を付けることはなかったし、文学的なオペラを作曲することもなかった。それは、彼の後続世代が、ボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌなどに歌を付けたのとは対照的である。このあたりにも、サン=サーンスの19世紀性、必然的な時代遅れ性があると言えるかもしれない。
前衛であり続けることの不可能性。
サン=サーンスの最晩年の連作ソナタは、モーツァルトのような古典的なたたずまいと、ロマン派的な拡がりが、不思議なまでの静謐さのなかでひとつに溶け合っている。
どこか第二次大戦後に書かれたリヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲、クラリネットとファゴットの二重協奏曲につうじる、不要なものをそぎ落とした簡素な筆致が描き出す、どこまでも澄みわたる彼岸の世界。
しかしそれは、ネクトゥーがいみじくも述べているように、「それまでのどの作品とも似ていない」ばかりか、「作曲者自身の音楽にすら似ていない」ものだった(「序論」『往復書簡集1862-1920』49頁)。
サン=サーンスは同時代をリードする音楽家としてキャリアをスタートさせながら、時代に追い越された。しかし、最後は時代のほうを置き去りにして、どの時代にも属さない独自の境地にたどり着いたようでもある。
フォーレは同時代的な音楽の変化に伴走し続けたと言える。しかし、それは、彼が前衛的な音楽語法を追いかけようとしたからではなく、彼の求めるものがそのような路線へとフォーレを導いていったというべきだろうか。
フォーレが求めたのは陶酔的な中庸だった。
フォーレはまさに陶酔に近い喜びをもった中庸の音楽家なのであ[る . . . ]かつて一人の友人に、「私は繊細さの領域をいっそう広げました」、と打ち明けているように、フォーレはその才能の多少とも限られた範囲において、ほとんど空前とも言えるほど濃やかで洗練された一つの世界を造り出したのである。おぼろげな、物を通して柔らかに差しこむような光に対する嗜好、平凡さや有りのままの現実のもつ卑俗さを拒否しながら示される暗示的でぼんやりとしたものへの秘められた好み、明確で視覚的な指示を持たない「夜想曲」、「舟歌」、「即興曲」等の表題の常用等は、かなり明瞭にフォーレの世界を位置づけている[ . . . ]。(J・M・ネクトゥー『ガブリエル・フォーレ 1845-1924』249‐50頁)
サン=サーンスとフォーレの趣味には隔たりがある。しかし、その一方で、サン=サーンスがフォーレに、そしてグノーにも見抜いたものがあった。彼らに共通する嗜好はあった。
眩惑、機知、真の素朴さ、新鮮味、古代文明の芳香(ネクトゥー「序論」『往復書簡集1862-1920』37頁)
そしてそれは、ドビュッシーやラヴェルにも引き継がれていく傾向といえるかもしれないし、これこそ、20世紀のフランス音楽を、同時代のドイツ・オーストリア音楽と隔てる特徴であったのかもしれない。