うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。「金は出すが口は出さない」と「金を出したから口を出す」。

特任講師観察記断章。「金は出すが口は出さない」と言えるほどの金を持ったこともなければ、そのようなことを言いたくなる相手にもいまだめぐり合っていない身では、あくまで想像するだけなのだけれど、この言葉の根底にあるのは賭けなのだと思う。博打精神。リターンを期待する気持ちがないわけではない。大きなリターンを望んでいるというのは本当だろう。しかし、リターンなどないこと、それどころか、マイナスになりうる危険、めぐりめぐって自分の身に降りかかってくるかもしれない予見不可能なリスクさえあることも、我が身に引き受け、賭け金を投げ出しているのではないだろうか。

「金を出したから口を出す」。ここでは、金を出すことが、口を出すための理由や条件になっている。資本主義の論理であり、株式会社への投資の考え方だ。功利主義的なギブ・アンド・テイクである。それだけではない。金を多く出したほうが口を出す権利もまた大きくなるという物量主義である。「金を出さないなら口を出すな」、「口を出されたくなければ金をもらうな」がこの原理のバリエーションだ。

厄介なのは、どちらの原理にも一理あるところだろう。どちらかが絶対的に正しく、どちらかが絶対的に間違っているわけではない。投げっぱなしの投資家は無責任だろうし、口を出しすぎる出資者は度を越している。原理が相反するから、そのふたつが同じフィールドで稼働すると、いさかいが発生することは避けられない。しかし、効率性の名のもとに相反する原理をひとつに還元してよいのか。

いま現在のネオリベラルな世界は、「金を出したから口も出す」原理の一元支配に近い。この経済的な論理が、「勝つために手段を選ぶ必要はない」という強権主義、「勝ったものがルールを決める」という覇権主義と連動して、わたしたちの脊髄反射的な反応をかたちづくっている。どうやってこの問題に刻まれている深い断絶を切り崩すか。