うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

等価性の原理:フレデリック・ワイズマン『エクス・リブリスーーニューヨーク公共図書館』(2017)

20190616@静岡シネ・ギャラリー

変奏曲として、または多面性の表象

バッハの『ゴルトベルク変奏曲』の「アリア」がクレジットの入りとともに流れ出すとき、わたしたちは、このドキュメンタリーが変奏曲のようなものであったことに気がつく。同一主題の差異を含んだ繰り返し。時間的に隣接するシークエンスが直接に結びつくというよりは、フラグメントのようなイマージュが間歇的に出現し、単線的な進行を複線化し、奥行きを与える。だからここにはひとつの明確な盛り上がりのようなものはない。それが図書館の日常であり、図書館という空間の生のありかたなのだ。

フレデリック・ワイズマンの『エクス・リブリス』は、ニューヨーク公共図書館The New York Public Library(NYPL)をめぐるドキュメンタリーだが、それが対象とするのはマンハッタン島のど真ん中にあるあの有名な本館というよりは、それを含めたニューヨーク市公共図書館群である。巨大なリサーチ用の図書館から、ローカルなコミュニティーの図書館まで、黒人関連資料アーカイブショーンバーグ・センター)から音楽ホール(ブルーノ・ワルター・オーディトリウム)まで、ニューヨーク全域に張り巡らされた図書館ネットワークが対象となっている。

3時間を超えるこの映像にはさまざまな情景や人々が収められているし、朝から夜までという自然のサイクルをそれとなく踏まえたかたちで進んでいくが、そこにドキュメンタリー作家の強固な統合が作用しているという印象はない。もちろん、膨大なフッテージのなかからこれらのシークエンスを選び出すというその編集行為自体が、作家による介入でなくて何であろうというところではあるけれど、にもかかわらず、作為のようなものがここにはほとんど感じられない。あえて言えば、特定のテーマのもとに多様なものを還元しないという脱‐統合原理が全体の統合原理になっている、ということになるだろう。NYPLの特定の側面を強調するのではなく、その雑多なまでの多面性をこそ捉えようとしているのだ。

 

等価性の原理

それはもしかすると、等価性の原理と呼んでいいものかもしれない。有名な作家や芸術家や学者によるトークイベントとベルトコンベアを前にした配本作業とが、祝典での晩餐会と蔵書のデジタル化とが、聴覚障碍者がリアルタイムで演劇を楽しむための手話ワークショップとローカルなコミュニティでの小学生対象の宿題ワークショップとが、ジョブフェアとWifiルーターの貸し出しとが、社会保障についての視覚障碍者たちのミーティングと貸出傾向についての司書たちのミーティングとが、画像アーカイブへの社会見学と図書館付近の路上とが、インテリアを写真に収める観光客とソファーに寝そべるホームレスとが、分け隔てなく表象される。そこには誇張もなければ矮小化もない。どれかがなにかべつのものよりも特別に重要というわけではないかのように、NYPLのなかで起こることはどれもが図書館の生にとって必要不可欠であるかのように。

とはいえ、シークエンス同士は等価的であるとしても、そのあいだに差し挟まれる再帰的なイマージュもある。本館の廊下である。大理石の床、アーチ状の天井、格子の扉。そこに特別な意味が付与されているわけではない。まさに図書館の日常性の証左としてのイマージュなのだろう。

 

図書館の公共性をめぐる問い

シークエンスは等価的につなぎ合わされていくが、そのなかで、シークエンスをまたいで幾度となく尋ねられる問いがある。図書館の公共性についての問いだ。実際、予算や運営をめぐる会議の模様が数回にわたって映し出されるのだけれど、そこでは、NYPL全体の方向性を決める大きな議題が論じられる。電子書籍と紙の書籍の割合をどうするのか、ホームレスを受け入れるのかどうか、市からの予算の増減、私的投資の呼び込み、公と私の相乗効果といった問題が論じられる。

それは図書館の使命をめぐる議論であり、「公共」の定義をめぐる問いかけだ。

公共であること、それは市民にたいして開かれていることであり、あらゆる市民にたいして同じように開かれていることである。しかしながら、市民の求めるものはそれぞれに異なっているから、リサーチをする人の求めるものを優先すればベストセラーを読みたい人のニーズをかなえられないし、ホームレスを歓待すればそれを喜ばない人を失望させることになる。

完全な解答はない。しかし、だからといって、そのための探求を放棄するわけにはいかない。すべては不完全ではあるけれど――予算は決して十分ではないし、時間や人員とて十全ではない――そのなかでできることをやらなければならない。

 

言葉のドキュメンタリー

『エクス・リブリス』は膨大な言葉を収めている。映像作品であるにもかかわらず、ここのドキュメンタリーの訴求力のかなりの部分はそこで語られる言葉に求められるだろう。

しかしそれは必ずしもそこで語られる言葉の内容のせいだけではないように思う。ここで表象されているのは、図書館に人が集い、そこで言葉が語られ、その言葉が多数の列席者に聞かれているという、言葉のパフォーマンスの共同性である。

わたしたちはその言葉のパフォーマンスを目撃しながら、単なる傍観者ではなく、列席者のひとりになる。というのも、このドキュメンタリーで語られる言葉はすべて、カメラに向かった話されたものではないからだ。図書館運営をめぐる議論にしても、トークイベントの語りにしても、すべて、その場にいる別の人々に向けられた言葉なのだ。

わたしたちはまるで透明人間のように、あらゆる会話や演説に参加し、話し手を見つめ、そして、同じほかの列席者を見つめる。ワインズマンの映像は擬似的な参加意識を作り出す。

 

人が集う社会的空間として図書館を定義しなおす

図書館を社会的な空間として定義すること、それは、図書館がすでに存在する社会問題と深くかかわりあうことを意味する。都市のインターネットインフラ整備は、必ずしも図書館の仕事ではないかもしれないが、万人の情報への自由なアクセスというミッションをかなえるためには、「図書館だから」と言い訳するわけにはいかない。

もちろん図書館が果たすべき義務は存在するだろう。それが公共施設であり、市の予算が入っている以上、行政の要望は無視できないけれど、行政的な義務に以上に重要なのは、図書館の使命である。それを、変わりゆく現実を前にして、つねに問い直し、つねに定義しなおし、つねに実践し続けていくこと、そこにこそ、現代における図書館の存在意義がある。

ドキュメンタリーなかばあたりで、オランダのある建築家が、現代の図書館にとって重要なのは、そこに所蔵された本ではなく、そこに集う人なのだ、と述べていた。図書館は学びのための場所であり、学ぶ人のための空間である。こう言ってみてもいいだろう。本は手段であり、目的そのものではない、と。

もし図書館が資本主義的な経済合理性やナショナリズム的な野蛮性や暴力性に抗する民主主義のための場でありえるとしたら、それは、図書館が教育的なところだからだ。それは図書館がある特定の知や理念を押し付けるからではない。そうではなく、知るということ、学ぶということ、考えるという行為を生み出し、支え、拡げていくための空間として機能するからである。

そしてそのために、人がいるのだ。学ぶ人だけではなく、教える人が。そして、なによりも重要なことに、ともに学ぶ人が。

 

ドキュメンタリーを体験すること、または公民になり続けること

このドキュメンタリーを体験すること――そう、この長大な、まさにわたしたちの日常がそうであるように、あくびの出そうなほど退屈な瞬間もあればワクワクするほどの感興の瞬間もある、図書館という公共の場所に集う公民たちの共同的な生の様態を描いた映像を見ることは、ただ傍観すること以上の経験であり、そこで描き出される思想や問題を自らのものとして引き受け、取り組んでいくという体験にほかならないのである――、それは、わたしたちがともに学ぶ人になるというプロセスである。

もちろん、意図的に控えめに作られている『エクス・リブリス』に華々しい万能薬が登場するわけではない。しかしここには、図書館が民主主義のための条件であること、民主主義のプレイヤーたる公民の育成のためには図書館の提供する情報への自由で無料なフリー・アクセスが必要不可欠であること、公民育成が持続的な終わりなき闘いであることが、力強く映し出されている。

真似るべきは、NYPLというよりも、NYPLがニューヨークの生の現実と対話し、格闘し、共生し、互いに歩んでいこうという、現在進行形的な、ワーク・イン・プログレスの姿勢だろう。そうした姿勢をただ映像として表象するだけでなく、物理的な尺の長さと地味な進行による作劇的なドラマの無さによって、観客であるわたしたちをもそのプロセスの一部に静かに静かに巻きこんでいくところにこそ、ワイズマンのドキュメンタリーの押しつけがましくないユートピア性があるはずである。