うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

マニュアル化できない動きをメソッドで作り上げる(ことはできるのか?):Zoom in Trainingの難問

20200502@くものうえせかい演劇祭

戯曲と演出から演劇を鑑賞するということ、それは舞台を全体として捉える態度であり、そのなかで個々の俳優や小道具や背景はあくまでパーツにすぎず、全体との整合性や相乗効果においてのみ耳目を引くものでしかないところがある。だからZoom in Trainingを見ていると、普段の観劇ではそれ自体としてはそこまで注意を払っていなかった個々の俳優の身体技法に初めて遭遇したかのような気がしてくる。

スズキ・メソッドをベースにもつトレーニングにはいくつかの要素が混在しているように思う。1)身体の全体像を俯瞰的に把握する(重心=丹田の問題)、2)身体感覚を拡張する(指広げ)、3)身体の確実で微細なコントロール(ポージング、カウント、ポーズのままの発声やセリフ)、4)身体が「動かされる」感覚を創造=想像して実践する(仮想の相手とのパントマイム、身体に指令を出す自分を他者として捉えるパントマイムとでもいおうか)。

つまり、全体としての身体(またはその核)の把握、身体の細部や末端の把握、身体の外部の把握、という系統の異なるスキルの養成が目指されているように思うし、そこには西欧的な身体コントロールの理想と、日本的な(と言っていいのかもしれない)身体の状態の対比を見ることができるような気はする。

内側から体を自由に動かすことと、外側から体が動かされること。一方において、脳と体が直結され、思った瞬間に体が思い通りに動いているような、理想と現実が一致しているような行為が理想としてある。しかし他方には、まるでスライムの海のなかにいるかのように、動きのすべてに空気抵抗を感じながら、空気の重さや手応えを感じながら、それを打破すべき足かせのような「モノ」と捉えるのではなく――自然の克服は、西欧的思考の根本にあるものだろう――愛し慈しむべき「もの」として捉えることができている状態が理想としてある。外界が自分の身体に与える影響を含めて、自分の身体で自分の動きが終わるのではなく、自分の周りを包んでいる空気、それと地続きである劇場空間、はては世界全体をも含めて、自らの動きとするような状態。そうした状態こそが、宮城のメソッドが作り上げようとする身体の究極的なあり方ではないだろうかという気がする。

これらはほとんど相反するものである。だから、当然といえば当然なのだろうけれど、その熟練度は俳優個人のなかでもバラバラだし、俳優間のスキルもバラバラであるように見える。重心=丹田を捉まえるのが抜群に巧く、体幹のすがたがひじょうに美しい俳優(たとえば三島景太)だからといって、身体のすみずみまで意識が浸透しているわけではなさそうであるし、身体感覚が繊細に拡張されている(これは片岡佐和子がひじょうにうまいと思う)からといって、それと同じレベルで外(から)の動きを取り込めているわけではなさそうだ。それに、これらのスキルは、必ずしも段階的に習熟してくものでもないように思う。まずは丹田、次に末端、つぎに外部、という順番に身につけて行けばいいというものでもないように思う(トレーニングの順番を見ると、なんとなくそうなっているような気もするが)。

アンティゴネー』をいまだに観たことがないので、その延長線にあるらしい『オセロー能』や『顕れ』を踏まえて想像するのだけれど、盆踊りは、遅い身体、動かされつつ身体の各部が連動するような身体を、前提としているように見える。手は動かすというより、動かされる。腕を前に押し出すのではなく、誰かに引かれるように。体を前傾させるのではなく、後ろから静かに押されるように。そしてその動きに呼応するかのように両腕が広げられるのだけれど、その指先の所作の美しさを作るためには、おそらく動かされる動きだけでは足りなくて、自意識的な内側からの微調整がいるような気がする。

そのようなものとして盆踊りが振りつけられているのかはわからないけれど、もしそうだとすると、若菜大輔の動きは傑出しているように見える。動きのしなやかさと静かさ、遅さと運動性が、すばらしく微妙なバランスで釣り合っている(とはいえ、今日はちょっといまいちだったかもしれないが)。吉見亮の動きには、演武のような硬質なニュアンスを感じるけれど、外と内がみごとに拮抗している。永井健二もひじょうに巧みだと思う。

動きすぎずに動く、動かされながら自分で(も)動く――それは絶対的な正解のないものだろう。マニュアル化できないからだ。こうすれば必ずうまくいくというような、AをすればBになるというような、単純な因果関係には還元できない。あれもこれも、あっちもそっちも、どれだけあるのかわからない無数のものを、微妙な塩梅で、リアルタイムで整えていく。そしてそれを、個として実践するだけではなく、集団として実践しなければいけないのだから、ますますハードルは上がる。トレーニングはそうした奇跡的な均衡を舞台で成し遂げるための下準備なのだろうと思う。