うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230505 『パンソリ群唱』(演出・作・音楽監督:パク・インへ)を観る。

20230505@楕円堂 『パンソリ群唱』(演出・作・音楽監督:パク・インへ)

済州島に伝わる神々についての民話を題材にした創作劇と言っていいのだろう。「家の神々の起源譚」とのことだが、それはいわば種明かし的なオチであって、メインとなるのは家族の離散と再生の物語。

それが、「一人の歌い手が、太鼓プクのリズムに乗せ、独特の節回しで喜怒哀楽を語る朝鮮の民俗芸能」であるパンソリを発展的に拡大した形式で提示される。ここでは歌い手は6人に、楽器奏者は2人に拡大されている。使用楽器も太鼓以外の打楽器があり、撥弦楽器がある。歌い手たちはユニゾンで歌うだけではなく、ハモりを効かせた合唱を披露する。

モーツァルトの番号オペラで、レチタティーヴォがアリアになったり重唱になったりするように、ここでは語りと歌が交替し、シームレスにつながっていく。しかし、オペラと違って、語り手=歌い手が特定の役柄を受け持つわけではない。全員を率いるパク・インへがひとりで主要なキャラクターをすべて演じるのだ。それはきっと、インヘが主軸となって伝統的なパンソリの形式を体現することで、それ以外のメンバーを自由に用いるためのギミックなのだろう。

民話的とも神話的とも言えるこの物語は、ユリシーズとペネロペ―とテレマコスを思い出させる。旅に出てしまった父は帰ってこない。荒れ果てる家のなか、母はどうにか家名を守ろうと努力する。父は魔女の島で囚われの身となっている。息子は現状を打破しようと行動に出る。

しかし、『パンソリ群唱』では、伝統的なジェンダー的な役割が転倒させられている。貧困に喘ぐ家族を救うために島の外に船出し、交易で一山当てようとする父がいなくなると、7人の息子を抱えた母はますます困窮することになるが、家を切り盛りするために末っ子が提案するのは針仕事。そして、父を探しに船出するのは、息子ではなく、母のほう。

とはいえ、オリジナルの物語でもそうなっているのだろうかという疑問は当然ある。というよりも、オーセンティックなパンソリを体験したことがない身からすると、どこまでが伝統的なもので、どこからが創作的なものなのかが、よくわからない。

そのような疑いが頭をもたげると、すべての所作がいちいち気になってしまう。たとえば、若いメンバーがキュートな感じに人差し指を立てて腕を回転させるしぐさが、K-POPアイドルのダンスのようにも見えてくる。なんとなくだが、メンバーのなかでも、伝統的なパンソリの技術の習熟度や理解の深さについて、少なからぬブレがあるのではないかという気もしてくる。年長とおぼしきメンバーは、アルトの音域の声を自在にコントロールして、響きに圧倒的な安定感を与えていたけれど、若いメンバーのソプラノに近い声は、どこか重心が高く、上ずった感じがないでもない。

しかし、声の響きにたいする不満は、パフォーマーの問題ではなく、PAの問題だったのだと思う。マイクで拾って増幅した声がやかましすぎた。楕円堂のような小劇場(かつ、豊かな残響を持っていそうな空間)であれば、肉声でも充分だったのではないか。正直に言えば、あれは「割れた音」であり、責められてしかるべきものだったと思う。

パク・インへがすべての手綱を握っていた。彼女は全体の枠を提示する語り部であり、物語の字の文の語り手であり、物語の主要人物のすべてを演じていたからだ。しかし、裏を返せば、彼女の比重が高すぎて、他のメンバーが「それ以外」になってしまっていたきらいもある。しかし、それは彼女の望むところではなかったのではないかという気もするところ。

全員のプレゼンスが拮抗して、ライブな舞台芸術ならではの強度を作り出していたのは、魔女に追い詰められていくシーン。他のメンバーに取り囲まれ、照明が暗くなる。デモーニッシュな妖しさが浮かび上がる。

プロモーションビデオ的に挿入された映像は、いまひとつ全体のパフォーマンスに融合されていなかったように感じる。そのあたりにも、演出としての手探り感があった。

というわけで、個人的にはいまひとつ納得できないところがあったし、コンテクストがわからないので、どう捉えたらいいのか途方に暮れてしまったというのが正直な感想。

蛇足。Wikipediaで済州島を調べて初めて知ったのだけれど、この島は長らく流刑地であったという。日本による韓国併合を経て、大東亜戦争後は、南北朝鮮の動乱に巻き込まれていく。1948年の「済州島四・三事件」では、左派の弾圧が行われ、3万は下らない島民が犠牲となり、それを期に日本に逃れた者も少なくないという。

韓国にとって済州島の問題は、きわめて微妙で、センシティヴなものをはらんでいるのだろう。韓国政府は観光名所として売り出そうと試みてきたようであるらしいけれど。

だとすれば、韓国と済州島の関係は、日本と沖縄の関係とパラレルになる部分があるのかもしれない。

しかし、そのような緊張関係は、この(ある意味では楽観的な)パフォーマンスからは感じられなかった。