うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230315 『RRR』を観る。

『RRR』を観る。これは危険なエンターテイメント映画だ。


1920年代の英国統治下のインドが舞台。主人公となるのは二人の男。ひとりは、インド総督の妻の気まぐれで奪われた妹エッリを取り戻そうとするゴーント族のビーム。もうひとりは、英国統治下のインドであえて警察官となり、村民全員に武器を持たせて蜂起させるという父との誓いを果たそうとするラーマ。橋を渡る最中に事故で脱線した列車から漏れた油で燃え盛る川に取り残された少年を助けようとして、二人は以心伝心で協力する。そして、二人は兄弟のように親しく付き合うようになっていく。

しかし、彼らは心に秘めた目的について互いに語り合うことはない。

だから、悲劇が起こる。

エッリを助けようとして総督の邸宅に動物とともになだれ込んだビームを、ラーマは逮捕せざるをえない。ラーマは、血なまぐさい鞭打ちの見世物を所望する総督夫妻を満足させるために、自ら捕縛した親友を拷問にかけなければならない。

だが、武器庫を管理できる地位に就くという目的のために私心を抑え込んできて、まさにその機会が訪れたのと同じときに、ビームが絞首刑に処されることがわかったラーマは、みずからの過ちに気づく。村民に手渡すべきは銃という武器ではない、民衆を英国支配にたいして立ち上がらせる気概なのだ、と。鞭打たれながら決して跪くことがなく、抵抗を歌い上げたビームの姿こそ、彼が目指すべきものだったのだ、と。

こうしてビームはラーマのおかげで命を救われるが、その代償に、今度はラーマが絞首刑に処されることになる。ラーマが故郷に残してきた許嫁のシータから、民衆蜂起というラーマの本当の目的を聞いたビームもまた、みずからの過ちに気づく。目指すべきは家族の救出という小事だけではなく、民族の解放という大事であるべきなのだ、ということに。

映画はインドの男たちの勝利に終わる。イギリスが作り、イギリスからはるばる運ばれてた貴重な銃弾をインド人を殺すのに使うなど何事かと言う英国人に、彼らはお返しをしてやるのだ。総督は彼らの銃弾に倒れるだろう。彼らは故郷に帰り、叛乱を指揮することなるだろう。インドの英国からの独立を予感させるようにして『RRR』は幕を閉じる。


Wikipediaによれば、ビームラーマも、実在の人物であるとのこと。しかし、この映画で描かれる二人の出会いと交流は完全なフィクションである。『RRR』のクリエーターたちが試みたのは、ラーマとビームの人生の空白期間に着目し、ありえたかもしれない可能性——のちに独立の闘志となるふたりはもしかしたら出会っており、魂の交流を結び、思想的にも精神的にも互いに影響を受けていたのではないか——を描き出すことだったと言えるだろう。

しかしそれは、壮大なナショナリズム的スペクタクルを作り上げることであり、観る者をイデオロギー的に先導するプロパガンダを製作することでもあったと、遡及的に結論することもできるだろう。

それほどまでにこの映画は強烈なのだ。この映画を観て、ラドヤード・キプリングがうそぶいた「白人の重荷」を言葉どおりに受け取ることができる者がはたしているだろうか。ここでイギリス側は非人間的な、非人道的な存在として描かれるだろう。インドの人々を見下す存在として。そのような存在に共感できる観客ははたしているだろうか。


ただし、そこには例外もいる。インド総督の姪であるジェニーは、人道的な姿勢を見せる。彼女はビーマと親しく付き合い、映画の最後では、崩壊した総督の邸宅を離れて、独立闘争の側に加わっているようにすら見える(それがはたして史実的に正しいのかどうかは、わたしにはわからない)。また、総督の邸宅でのパーティーでのダンス・シーンは、イギリスの男たちが鼻持ちならないレイシストであることを見せつける一方で、イギリスの女たちはインドの踊りの本源的なリズムや感興に親和的であることを描き出している(こちらについても、はたして史実的に正しいのかどうかという気はするところ)。

つまり、この映画では、ジェンダーによる分割は明確である。例外的な存在として、インド人の血を見たがるサディスティックな総督の妻がおり、インドにたいして敵対的というわけでもないイギリスの女たちがおり、インドの男たちの闘争を暗に陽に支えるインドの女たちがいる。どちらにせよ、彼女たちはいわば脇役にとどまるだろう

『RRR』は、究極的には、男たちの物語であるのだから。


ここには強制的な感動がある。物語としてはベタだ。親友となったふたりが争う。しかし、それは仲たがいしたからではなく、ふたりの目指すものが食い違うからであり、魂のレベルではふたりは依然として深く結び合わされている。だから、最終的に、ふたりは和解する。互いが互いになしたことは赦される。そして互いの納得のうえで、ふたりは高貴なる高次の目的のために身をささげるのである。

これをホモソーシャルな物語として読んでいいのかという気はするが、ここに甘美な男同士の友情を読み込むことは許されるだろう。

とはいえ、インド映画が、いわゆる邦画とも、いわゆる洋画とも、まったく異なったコードによって作られているらしいことは覚えておかなければならないだろう。唐突に割り込んでくるソングとダンスは、物語的な必然ではなく、ジャンル的な要請なのだろう。だとすれば、ビームとラーマの友情物語にしても、特異なものというよりは、よくある常套的なプロットなのかという気もしてくる。


ヒンドゥー教の神話が重ね合わされている。だからこの物語は、ありえたかもしれない仮想的な歴史物語であると同時に、神話的な物語でもあるのだ。そしてその結末は、インドの英国にたいする世俗的な勝利であるとともに、ヒンドゥー教の神々の西欧にたいする勝利でもある。

それはおそらく、この映画を観るインドの観客に、西欧にたいする反感を無意識的なところで喚起するとともに、ヒンドゥー教的なインドにたいする愛を激しく搔き立てるだろう。たしかにそれは必ずしも悪いことではないかもしれない。しかし、自国にたいする愛や尊敬は、容易に、他国にたいする敵意や軽視に転嫁するだろう。少なくとも、両者はまったく無縁なものではありえないだろう。インドをただ称えるのではなく、その必然的な付録として、イギリスのディスりが加わる危険はある。


問題含みだと思われるのは、インド内部における未開と文明のご都合主義的な結合だ。イギリスの植民地行政システムにあえて入り込んだラーマが、最終的には、ヒンドゥーの神を思わせるような上半身裸で馬にまたがって弓矢を射る存在となる一方で、森で暮らす未開民族であるかのように描かれていたビームは、潜伏時にはオートバイの修理工として働き、バイクで駆ける存在として描かれる。

極めつけの問題点は、映画の最後で、初心を貫徹したラーマに何を望むかと問われたビームが、「読み書きを教えてほしい」と答えるシーンだ。つまるところ、すでに文明の洗礼を受けたラーマこそが「兄」であり、ビームは「弟」にして啓蒙されるべき存在、これから学んでいかなければならない存在なのだ。

もう1点。エンディングロールでは、登場人物たちが、役割というよりも俳優として、歌い踊る。彼ら彼女らの背後に掲げられた半身像は、インドの独立の闘志たちであるようだ。このあたりの歴史的知識に乏しいので、そこで映し出されていた人々のすべてを同定することはできないけれど、ガンジーネルーがいたことは確かである。

『RRR』自体は、成功には至らなかった独立闘争についての仮想的な物語である。しかし、それは同時に、歴史的に成功した独立闘争に、虚構的な起源を遡及的に創作する試みであるとも言える(ニーチェが『反時代的省察』の第二論文「歴史の使用と濫用」のなかで述べたような)。それはとてつもなく解放的で鼓舞的であると同時に、きわめて修正主義的で捏造的なものでもあるはずだ。

 

(とはいえ、インド映画をナショナリズムを煽っていると批判することは、これまでにハリウッド映画がやってきたこと、これまでに国民文学がやってきたこを忘却する行為であると言わなければならないはずだ。

 

ここで思い出されたのは、たとえば、エミール・ゾラの『壊滅』だ。普仏戦争パリ・コミューンを描き出すこの小説は、農民出身の伍長ジャンとブルジョワ家庭出身の一兵卒のモーリスの階級を越えたホモソーシャルを友情をきわめて魅力的に提示する一方で、ドイツ兵にたいする敵意をほとんど無邪気なまでに搔き立てる。

 

冷戦期のハリウッド映画もそういうものだったのではないか。共産圏のネガティヴな表象、民主主義のポジティヴなイメージ化。

 

だとすれば、ヒンズー・ナショナリズムを美化するインド映画を糾弾する資格を持ち合わせている者がはたしているのだろうかという気にもなる。)

 


3時間に及ぶ本作品は長い。しかし、巧みに配置された歌や踊りのおかげで、最後までダレることなく観させられてしまう。スーパーマン的なアクション——猛獣たちとの闘い、イギリス兵の一方的な——は、多用されるスローモーションやCGのせいで作り物めいた感じもあり、漫画めいた感じさえするところではあるが、だからこそ、爽快な箇所でもある。映像のスピード感やエンターテイメント性に身をゆだねていれば、3時間はあっという間ではある。