うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。長い日本語の文を書くために。

翻訳語考。長い日本語の文を書くにはどうすればいいか。

西洋語にはコロンやセミコロンがあり、ダッシュがある。西洋語のほうが区切りのギアが細かい。プルーストの文章は長い長いと言われるけれど、あの長文はコロンやセミコロンによって可能になっている部分がかなりある。

ある意味、近代化される前の日本語のほうが文の区切り方に関してはずっと柔軟だったのではないか。文字と文字が融け合って長く伸びたり、寄り集まってかたまりになっていたりする手書きのテクストを見ると、いまとはまったく違う呼吸感や拍節感が日本語にはあったのではないかという気がしてくる。原稿用紙のマス目の悪影響は絶対にある。

文の終わりに丸を打つのではなく点を打ってみたら文がスルスルとつながっていった、と保坂和志があるエッセイのなかで書いていたので、自分でも実践してみたことがある、実感として正しいと思ったし、点で文を繋ぐやり方はセミコロンの翻訳法として上手い解決策だと気づいた、けれども、自分の訳文で使う勇気があるかというと、それはない。

句読点に頼るのではなく、接続詞や文末の語尾を調整することによって文を伸ばしてくことも可能ではあるけれど、蓮實的文体の劣化コピーにしかならないだろう。自分の技量不足は否定しないが、文と文の蝶番部分が単調になってしまうのは近代日本語の宿命かもしれないし、そのせいなのか、どうしても文体がベタっとした感じになりがちで、ウェットなフランス語にはいいかもしれないとしても、ウィッティーなイギリス語にはしっくりこないだろうし、ウネウネ伸びていくアメリカ語にもうまくはまらない気がする。

西洋語のコンテクストではまったく普通のことでしかないコロンやセミコロンで弱くつながれた文章のつらなりは、翻訳されると、どうしても強度が変わってしまう。日本語としてヘンになるわけではないが、オリジナルのニュアンスは変質する。句点というクサビを文章に打ち込めば、原文よりエッジが効きすぎてしまう。読点で引き延ばせば、原文にある小さいけれど絶対に見逃しはしないわずかな凹凸が均されて、滑らかになりすぎてしまう。

視覚的な相関物を作ろうと思うのがそもそも間違いなのかもしれない。句点や読点の数や位置を合わせようという字義通りの訳文は機械的すぎる。文章の内を流れるリズムやパルスをコントロールすることによって、セミコロンの半休止感であるとかコロンの並列感を読者に体験してもらうように仕向けるのが一番いいのかもしれない。文章の内的なスピードが重要であり、句読点はそのための手段にすぎない、内的な統一性は数量的なものではなく質的なものによって可能になる、というわけだ――グレン・グールドが二度目のゴルトベルク変奏曲の録音で心掛けたのはこういうことだったのだと思う。

だぶんこれが正解だろう。そう思うのだけど、これは非常に難しい、というか、自分ひとりでは成功しているか判断できない。

翻訳を実際に音読してみて、言葉の引っかかり方や流れ方を自分で実演してみるべきか。パフォーマンスとしての翻訳、翻訳というパフォーマンス。