うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、ピッポ・デルボーノ『歓喜の詩』

20190506@静岡芸術劇場

歓喜にいたるには死を経験しなければならない、しかしそれは自分のものよりもはるかに痛ましい他の人の死なのだ、あなたの愛した人の死があなたを狂気の淵につれていく、しかし歓びは狂うことではない、狂うことのなかに歓びはない、歓びは死と狂気の向こうのこちら側に見出そう、死者をよみがえらせるのではない、決して取り戻すことのできない存在として死者もういちど悼む、死者を悼むことそれ自体をひとつの美しい生のありかたに変容する、いまここにのこされた自分のためではなくもうここにはいないあなたのために/の美しい空間を出現させる

暗闇がある。ステージ中央がにわかに照らし出される。鉢植えの花がある。ステージが暗転するたびに、鉢植えがふえていく。色鮮やかな花々が何もないステージに色を添える。

デルボーノのパフォーマンスの構成論理を鑑賞することは難しいし、それを試みることに意味があるとも思えない。理解したり説明したりするものではないように思われる。ジェラール・ジュネットは『フィギュール』に収められたプルースト論のなかで、物語構造のふたつのロジックについて語っている。ひとつは連辞的な接続、つまり、主語+述語+目的語というように、互いに異なった文法単位を横に繋いでいく散文的な論理であり、それは前に進んでいくものである。もうひとつは隠喩的な接続であり、それは、詩的な論理といっていいのかもしれない。というのも、こちらでは、言葉は横ではなく縦方向に滑っていくからだ。同じ文法単位のなかの、別の可能性が模索される。同じ種類に属する別の言葉によって、同じ系統に属する別の言葉によって、いまある言葉が置き換えられていく。前に進むというよりは、その場に踏みとどまる、そしてそこで、言語風景が刻一刻と移り変わっていく。ジュネットによれば、プルーストの物語は後者の系譜に位置づけられるものだというが、デルボーノのパフォーマンスもそうではないだろうか。

ここには線状の展開はない。すべてはメタファー的に、ひとつのイマージュからべつのイマージュへと横滑り的に移り変わっていく。それは積み上げるというよりは、並置である。万華鏡的な変奏と言ってもいい。

もちろん時間は前に進んでいく。時間は不可逆的なものであり、それを変えることは誰にも出来ない。しかし、それでも、舞台の出来事は時間の不可逆的な線状の経過に逆らうかのようだ。舞台は時計の針の進行に抵抗するのだ。ただし、時計の針を逆回転させるというようなかたちでではない。それでは動きの方向性を変えるだけであって、線状の経過そのものは温存されてしまうからだ。だからデルボーノの舞台の出来事はもっとべつの時間の論理を作り出そうとしているように思う。ここで時間は飛躍し、速度を変える。そしていくつかの時間が重なり合う。時間はゾーン状になったり、レイヤー状になったりする。異なった時間像がひとつの空間のなかで共存していく。

しかしデルボーノはそうした特異な時間像をことさらに正当化しようとはしない。そんなことはまったく不要なのだ。舞台に何かが置かれる。すると、そこから何かが始まる。舞台に衣類が並べられる。並べては片付けられ、片付けられてはまた並べられる。山のように盛り上げられる。寝そべるのにちょうどいいカタマリになる。そこにピエロが横たわる。そして、じっとわたしたちを見つめてくる。ここで「なぜ?」と問うことに意味はない。ピエロがそこにいるべき必然性はないだろう。そこにいるのがピエロであるべき必然性はないだろう。しかし、にもかかわらず、彼はすでにそこにいる。それで充分なのだ。すべては舞台で生起する出来事である。起こったことは起こったことであり、重要なのは「なぜ」という理由ではなく、「起こった」という出来事性であり、「起こることができた」という出来事性の奇跡のほうである。何かが起こってしまったのだ。何かがわたしたちの眼前で生起したのだ。わたしたちはその出来事に曝され、それを目撃してしまったのだ。そして、それに揺すぶられてしまったのだ。何かが再現されたのではない、何かが初めてわたしたちのまえに現れたのだ、たとえすでに何度も何度も演じられてきた演目であるとしても、たとえすでに何度も見たことがある演目であるとしても。

 しかしなにが現前しているのか? 

ピッポ・デルボーノが悼む相手、ボボだろうか。おそらく、というか、まちがいなくそうだ。だからこそ、デルボーノの過去のパフォーマンスを知らない人間からすると、『歓喜の詩』には、見知らぬ人についてのお話という印象を抱かざるをえない部分がある。しかし、ここで悼まれているのは、ボボという個人そのものなのだろうか。ボボという人間の具体的な一側面ではないだろう。ボボという観念でもない。むしろ、パフォーマーの身体の一部、記憶の一部、魂の一部にあるボボであるようにも思う。それはいわば彼の中にとりこまれたものとしてのボボーーobject relations理論がいうところのobjectとしての他者――であるようにも思う。

その意味では、デルボーノが提示するものは徹頭徹尾パーソナルなものであるにもかかわらず、まったくインパーソナルでもあるだろう。というのも、彼のパフォーマンスを感じるには、ボボを知っていなければならないわけではないからだ。ここにあるのは、「誰かの」哀悼というよりは、「哀悼という行為それ自体」である。だから、彼のパフォーマンスの前や後ろにあるものを、わたしたちはあえて考える必要がないかのようでもある。少なくともパフォーマンスそれ自体のなかでは、そうした前史の説明のようなものはない。

デルボーノの舞台をパントマイムとして捉えることができるかもしれない。わたしたちはそれがパントマイムであることは理解できるが、「何の」パントマイムなのかは理解できない。しかし、何のパントマイムか理解できないとしても、パントマイムをする身体の強度は依然としてそこにあるし、それを感じることはできる。サーカス的なケレン味のある衣装をまとったパフォーマーたちのプレゼンスは強烈に感じることができる。色とりどりの花々で埋めつくされていく舞台も、何かの象徴というよりは、色彩のコンポジションとして捉えるほうがいいのかもしれない、抽象絵画のように。抽象的だからといってそこに具体的な感情や思念がないわけではない、抽象的だからこそ感情や思念の純粋な強度が直接的に表出されているような、そんなアブストラクト・パフォーマンス。

ここで朗誦される言葉は詩である。舞台上での出来事の説明でも解説でもなく、むしろ、言葉として/という出来事、べつのかたちでの出来事であると捉えるほうがいい。というのも、ここにあるのはメタファー的な隣接Contiguityのロジックだろう。同じ場所に異なるものが幾重にも書きこまるパリンプセストのようなものではない。ある瞬間にそこに在ったものも、次の瞬間にはそこには無い。同じ空間で、瞬間ごとに、別のものが出現するようなものである。空間は同じであるが、そこを占有するものは瞬間ごとに異なる。だから、空間には重みが堆積しない。しかし、それを見ている観客の感性のなかに、観客の舞台の記憶のなかに、舞台空間のなかで現れては消えていったものが積み上がり、重ね合わされていく。わたしたちのなかに重層的に積み上がっていく隠喩的なものが、マグマのように吹き上がる舞台上の朗誦と呼応するとき、何かわけのわからないスパークがこちらの体内の意識領域のなかではじけるような気がする。しかし、それはおそろしくフラジャイルなものでもあるだろう。

 

パフォーマンスの成否がとても不確かなものに賭けられているように思う。テクストがそれ自体としては完結していないかのようなのだ。

いや、そういう言い方は正確ではない。テクストとしては完結している、パフォーマンスとしては完成している、しかし、それはわたしたちに受け取られるまでは未完なのだ。それがわたしたちに何らかの情動を与えてやっと作品は成就されるのだろう。そのとき作品自体に何かが加わるわけではないけれど、それが何か別のものに働きかけることが作品の生理的な要請であり、究極的な願いなのだ。

 誰かの哀悼という暗さから、哀悼そのものの表出へ、そして哀悼そのもの表出という明るさから、哀悼そのものが喚起する純粋な情動の連鎖反応へ、イマージュ的なもの、抽象的なものが呼び覚ますピュアなセンセーションが創り出す暗く明るい連帯の可能性のほうへ。

 

アフタートークのなかで、デルボーノは、「handicapped theaterをやっているつもりはない」」と述べていた。彼にとってみれば、彼の惚れこんだパフォーマーがたまたま障碍者であったにすぎないのであって、その逆ではない、ということなのだろう。障碍は二次的なものにすぎない。根底にあるのはパフォーマンスそのものであり、その意味では、デルボーノのパフォーマンスはどこまでも純粋なものだろう。

デルボーノの舞台はけっして陶酔的ではないし、催眠的でもない。メタファー的なシーン転換は、紙芝居が入れ替わるように、万華鏡の模様のように、瞬間的なものだけれど、インスピレーションによって即興的にその場で作られているわけではない。これもアフタートークで述べていたことだが、最初のコアの部分は即興的に作り上げていったものであるけれど、全体のシーン配置は、入れ替えや並べ替えという試行錯誤の産物であり、遡及的な編集作業の賜物であるという。イマージュの自由連想的な氾濫に思われるこの舞台にしても、実は、冷静な構成的意志の帰結なのだ。とてもそうは思えないのではあるけれど。

 

アフタートークのなかで、宮城聰は次のように述べていた。「ピッポさんは一年中たえず舞台に立っている、劇団の公演がない日には、別の劇場で独り芝居をやるくらい、とにかく毎日演じている。ぼくは行き詰ったとき、「でもピッポさんは地球上のどこかでいまも舞台に立っているんだ」と思い、舞台に立ち続けるピッポさんの姿にずっと励まされてきた。」 

宮城の舞台論理は、デルボーノのそれとは大きく異なっているように思う。デルボーノは、メタファー的に構成された一枚絵を、紙芝居的にフリップさせるように、入れ替え的に配列していく。そこで絵と絵の関係は、横と横の空間関係に近い。宮城のナラティヴは線状に展開され、累積的に盛り上がる。シーン同士の関係は前後関係であり、時間的なものである。デルボーノはイマージュをそのまま現前させる。宮城は概念を具現化させる。おそらく演劇人としての宮城は、本源的なところでは、デルボーノのような脱‐悟性的/理性的な非ロゴス的パフォーマンスに憧れているのだろう。しかし、演出家としての宮城は、ブレヒト的な反省性やモダニズム的アップデートを経た伝統芸能的な形式性を完全には手放そうとはしない。

しかし、ピッポも宮城も、舞台に賭けている。舞台に捧げられた生を生きている。演劇のために生きているというよりも、生きることが演劇することなのだ。彼らふたりの舞台に共通しているのはイノセンスなのかもしれない。それはかなり奇妙なかたちをした演劇至上主義であるようにも思うけれど、この生‐としての‐演劇が、わたしたちの生を、なにかふしぎと生きやすいものにしてくれているようにも思う。すくなくとも、生きることの難しさをすこしときほぐしてくれているようにも思う。