うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。不思議なサイクル。

特任講師観察記断章。不思議なサイクルになってきている。博士論文を書きあぐねていたときのような、ひたすら酒をあおりながら何かをひねり出そうとしていた留学時代の酔っ払った憂鬱のような、非生産的な生産性。
オンデマンド型の遠隔授業のためのレクチャービデオの作り方がだいぶ呑み込めてきた。音声のクオリティはまだまだ低いけれど、一枚のパネルにどれくらいの情報量を入れられるのか、どのくらいのテンポで進めていくのかが、経験則としてわかってきた。学会発表のように完全なスクリプトを準備しなくても、パワーポイント資料程度のものが目の前にあれば、案外スラスラと録音するための言葉が流れてくるようになってきた。
しかし、ルーティーンで作れるようになってきて余裕が出てきたからこそ、いままであまり気にしていなかったことを気にすることができるようになる。いまいちばん悩ましく思っているのは、動画で完結するように作るべきなのか、教科書を目の前にしながら動画を「聞いて」いるような状態を想定すべきなのか、という点だ。前者を目指すと、かなりの情報を書き込まなければいけない。しかし後者の前提で進めると、学生に、スクリーンと教科書(とノート)といういくつもの「画面」を横断することを要求することになってしまう。もちろん対面講義ではそれが普通なのだから、なにか問題なのかと言われると、うまく返答できないのだけれど、おそらく、そのような往還はわずらわしいにちがいないという感覚が自分のなかにあるのだろう。
作業に慣れてくるほどに、最終的なプロダクトのクオリティは右肩下がりになる。アウトラインだけを前にして音声を撮っていくと、どうしても長くなる。惰性のせいとはいわない。しかし、実際の授業だったら時間に追われてカットするようなところまで、遠慮なくタラタラと語ってしまう。そうやってできた動画には、緊張感が欠けているとまでは思わないけれど――録音するほうは結構ノリノリでしゃべっている――やはり凝縮度は低い。局所的にどこかが弛緩しているというより、全体がまんべんなく弛緩している。
オンラインとオフラインの換算ができない。いや、べつにする必要はないのかもしれない。90分の授業だから90分の動画である必要はないし、30分でも2時間でも、それで90分の対面授業に相当する学習効果が得られるのであれば、それでよいのかもしれない。
しかし、問題はまさにそこだ。
学生にとって学習効果が得られているのかどうか、まったくわからない。うちの大学がダメダメなだけかもしれないが、学生の生活状況がまるで見えない。どれくらいの課題を抱えていて、どれくらいキャパシティに余裕があるのかが、未知数すぎる。それ自体としてはそこまで重たくない課題でも、オンラインで提出する、しかも締切がいくつもあり、さまざまなプラットフォームを使いこなさなければならないということになれば、学生の心理的なストレスは計り知れないと思うのだけれど、それについての手がかりがなさすぎる。
もちろん学習効果の話などをし始めれば、これまでの対面授業はどうだったのだという問いがムクムクと頭をもたげてくる。よくないときもあれば、そこそこよいときもあった。だとすれば、いま学習効果というファクターに固執するのは、何かひじょうにナンセンスな気もするのだけれど、オンライン化は、これまでなあなあにしてきたことをことごとく可視化させ、数量化し、その結果、数値化への扉を開けてしまう。そうなってくると、効率性という経済的で経営的な原則を教育を語るファクターとして導入しないわけにはいかなくなってしまう。
饒舌になろうと、冗長になろうと、こちらの思う最上のものを提供し続ければいいのかもしれない。しかし、それで本当によいのかという迷いもある。そのようなたえざる自己肯定と自己否定に、精神がジワジワといたぶられている。
どこもかしこもなにかどうもうまくはまっていない。はまらないものなのだと思うし、はまるべきものでもないのだろう。しかし、それは大局的な見方であって、末端の教員には俯瞰性の贅沢は許されていない。