うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「閉じた本まで開いた本として読んでいる」:市田良彦『ルイ・アルチュセール――行方不明者の哲学」』(岩波新書、2018)

閉じた本まで開いた本として読んでいる。本の不在も開いた本として読んでいる。(アルチュセール、フランカへの手紙、1964年2月2日、77頁)

 

アルチュセールマルクス本人が自ら語ろうとはしなかった「マルクスの哲学」を分節しようとしたが、市田良彦もまた、アルチュセール本人がついに語りつくすことのできなかった「アルチュセールの哲学」を分節しようと試みているようだ。

市田アルチュセールの伝記的な部分から語り起こし、アルチュセールが生き抜いた具体的なエピソードやスキャンダラスな出来事――妻の絞殺と自殺――に彼の思想を還元するのではなく、彼の生に一貫して見い出される二股的な傾向――収容所においても、恋愛についても、神経状態においても、共産党学生運動との関係においても、哲学的思索においても――を際立たせていく。たとえば次のように。

アルチュセールの双極性は文字通りの病であった。鬱による最初の入院はおそらく捕虜時代に遡る。数カ月後、収容所内の診療施設にいたようだ。復員後まもないころにも、さらにエレーヌと肉体関係を結び童貞を喪失した直後にも、深刻な鬱におちいり入院している。精神分析家のもとに通うことは、やがて彼の日常生活の一部となった。躁状態のときには信じがたい密度で読書と執筆に没頭する。何度も原稿を書き直しては捨てているうちに、突然なにもできなくなって入院し、睡眠療法を受ける。この繰り返しが彼の生きるリズムであった。入院の事実は学校にも学生たちにも、六〇年代半ばに隠し通せなくなるまで慎重に秘匿された。童貞喪失直後はパニック発作をともなっていたせいもあってか、早発性痴呆(いまで言う統合失調症)と診断されている。医者を変え、病名は躁鬱病に変わった。(33頁)

しかしそれは、そうしたアルチュセールの二股人生の思想的に一貫した意義を深く掘り下げていくためなのだ。市田が対抗するのは、アルチュセールマルクスにしたような切断である。構造主義的なアルチュセールと偶然性の唯物主義的なアルチュセール、妻を殺した前と後のアルチュセールというふうに、どちらかの時期をもってアルチュセールの思想を代弁させるような態度にたいする異議申し立てである。

そこで立ち上がってくるのは、「ある」か「ない」かという二元論や二分法ではなく、「ある」と「ない」の時間的同時性と空間的共存性であり、だからこそ無を埋める有を主題化したスピノザの思想や、理論と実践の関係を問い直したマキャヴェッリの思想――市田によれば、「アルチュセールマキャヴェッリは最初からスピノザとともにあり、彼のスピノザは最初からマキャヴェッリとともにあったのだ」(63頁)という――が、市田アルチュセール論において特権的な扱いを受けることになる。それは主体も目的もなきプロセスの/についての哲学であり、だからこそ、市田のテクストは「行方不明者の哲学」という副題を持っている。

過程に主体はいないし目的もない、とアルチュセールは語った……彼の生涯を一つの過程とみなして振り返ってみれば、そこに主体がいないことはなるほどとうなずける。彼は「行方不明者」として生まれ育ち、それを受け入れ、そうなろうとした。自由であるとは、どこにいってもそこにおらず、捕捉されないこと。哲学者はそう考えるようになった。彼の哲学は主体の不在を肯定することに費やされている。(39頁)

しかし、疑問なのは、なぜ市田の試みが「必要」なのかという問いだ。アルチュセールマルクスの哲学を欲した理由は、もちろん、簡単に説明できることではないけれども、そこに共産党の正統派やスターリニズムとの壮絶な格闘があったことは容易に想像できる。アルチュセールは自らの考えを偽装するための言葉や言語を求めていたのだろう。そこにアルチュセール個人の思い入れがあったことは否定できないだろうけれど、それ以上に、時代の要求であったはずだ。

では、市田の試みにはそうした切実なものがあるのか。なければいけないというわけではないけれど、それがなければ、市田のような試みは単にアクロバティックな思想的遊戯に着地してしまいかねない。このコメントが、アルチュセールを表からも裏からも、心理的方向からも精神的方向からも、多面的かつ多角的に読み抜こうという市田の真摯な試みにたいしてかなり不当に響くことはわかっているが、市田の論考がますますスピノザのほうへ引き寄せられ、そのなかへ深く入り込んでいくほどに、当初の目的にはらまれていた大きな思想的問題が、特定の哲学者のテクストをめぐるミクロな解釈の問題にすりかわっていくような印象を受けたことは否定しがたい。実際、本書はアルチュセールの元生徒でもあったミッシェル・フーコーの監獄論や狂人論と思想的対話を展開したアルチュセールについての論考とともに閉じられるわけだが、その幕切れがあまりに突然なので、落丁かと思ったほどである。

 

濃密な文体で丁寧に書き綴られた市田のテクストが、単なるアルチュセール論にも、アルチュセールスピノザ論にも還元されない、それ独自の魅力を放っており、読むことの快楽を感じさせてくる稀有なものであることはまったく疑いないけれども、同時に、新書というには不適切な仕上がりになっていることも否定しがたい。この書はアルチュセールについてすでに少なからぬことを知っている、少なくとも構造主義ポスト構造主義マルクス主義の接点においてスピノザが大いに論じられてきていることを一応は知っている読者向きであり、そうした興味を持ち合わせていない初見の読者はおそらく3章あたりで本書の通読を諦めてしまおうという気持ちにさせられるかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、それで本書の価値が減じることはないだろう。最初の2章だけでも本書は充分すぎるほどにおもしろいのだから。