うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230520 異世界物語について少し考える。「俺はまだ本気出していないだけ」から「わたしまたやらかしてしまいました?」へ。

Duolingo を無料版でやっていると、いろいろと広告を見ることになる。いろいろとゲームをやったり、アプリを入れたりしてみている。

広告に出てくる漫画がいかにもな異世界のもので、逆に興味を惹かれて読んでみたけれど、そこで思い出したのは、2000年代ぐらいの『俺はまだ本気出していないだけ』というタイトルの漫画。

NEET(Not in Education, Employment or Training)という言葉が日本語の言説に登場したのは2000年代前半ぐらいのことだったと思うけれど、それと連動して有名になったネットミームに「働いたら負けかなと思っている」というアスキーアートがある。

そこには「本気を出したら俺はすごい」という矜持があったように思うし、その前提として、「しかし本気を出していない今の俺はダメ人間」という現実を認める素直さもあったのではないか。そして、自分のダメさ加減を認めたうえで、それをあえて愛おしむ態度がまだ可能であったのかもしれない。そこには、社会の落伍者となること/見なされることに、(たとえどれほど捻くれていようと)誇りのようなものを付与することができていたのではないかという気がする。

現在の異世界もの、とくに追放物語では、「俺はすごい」ことはすでに確定した事実となっている。ただし、それが周囲に認められていない。すくなくとも、主人公が属している小さなコミュニティのなかでは。そして、主人公自身ですら、自分のすごさに気づいていないことが多い。だからこそ、「わたしまたやらかしてしまいました?」というテンプレーー自己評価と他己評価の圧倒的な非対称性ーーが機能するのだろう。

しかし、「俺はまだ本気出してないだけ」というニヒリズム的なテンプレに比べると、「わたしまたやらかしてしまいました?」という無自覚な能力者の吐く言葉は自意識に欠ける。そこにあるのは未成熟な万能感でしかない。

さらに厄介なのは、このような物語を消費する読者は、無自覚な能力者である主人公には欠けている自意識を持ち合わせているところだろう。物語の主人公が、いわば、無邪気な子どもだとしたら、読者は決してそうではない。すべてわかったうえで、主人公が無邪気に見せつける能力に圧倒される物語世界の住人たちの反応を、承認を、わがものであるかのように享受しているのではないか。

「俺はまだ本気出していないだけ」が自意識的な捨て台詞だとしたら、「わたしまたやらかしてしまいました?」は倒錯した承認欲求の独白なのだろう。