うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

チルギルチンの公演を聞いていくつか考えたこと

昨日の チルギルチンの公演を聞いていくつか考えたこと(YouTube で Chirgilchin 検索するといろいろと音源が出てくる)。

*ユニゾンは斉唱の第一歩なのか
司会の巻上によれば、チルギルチンは伝統的なものを引き継ぐ一方で、現代的なアレンジも加えているという。そのようなアレンジのなかに、いわゆる「ハモリ」のようなもの、和声的な斉唱があったのだけれど、それがひじょうに突出して聞こえた。昨日演奏されたすべての曲のなかで、その瞬間が、あきらかに異質なものに聞こえた。


*音階は世界の音楽に普遍的に存在するのか
どの音をいくつの使ってひとつの音階とするかは異なるものの、一連の音列をひとつのユニットとして捉えるというのは、音楽システムとしてかなり普遍性が高いような気はする。その意味では、旋律であれリズムであれ、ある程度の長さをひとつのユニットとして捉え、それを反復するのも、かなり普遍的な特徴であるような気はする。何小節でひとかたまりというような形式感。別の言い方をすれば、完全にランダムな、まったく反復を含まない音楽(形式的にも内容的にも反復を排除する音楽)は、相当に自意識的な、まさに人工的な音楽ということになるのではないか。


*和声や和音はどこまで普遍的なのか
昨日の演奏ではアルペジオはよく使われていたけれど、ギターによくある、コードをかき鳴らすという動作はほとんどなかったと思う。音階から和声は一息という感じもするのだけれど、意外とそうではないのかもしれない。


*和声的な斉唱のハードルの高さ
ニゾンが原初的な、もしかすると自然発生的な斉唱の技法だとすると、そこから和声的な斉唱までは、かなりの技術的飛躍が必要になるのかもしれない。


*または、和声的な厚みとは別の厚み
というよりも、音高の違いを本質的な差異とする複数の音を重ねることで作り出される厚みとは別の厚みが、追求されているというべきかもしれない。つまり、和声的に音を合わせるのではなく、奏者の「息を合わせる」というような方向性。

別の言い方をすれば、最終的な音を合わせるのか、それとも、音を出す瞬間を合わせるのか。空気のなかにリリースされて人間の身体から切り離された音世界の秩序を構築するのか、それとも、音が外界にリリースされるその瞬間、音が世界と肉体の両方に接しているその瞬間を基点とするのか。もちろん、すべての音楽にとって両者はともに重要ではあるが、それらの重要性をどのように関係づけるかは、決して一定ではないはずだ。


*和声的な斉唱の非共同体性
和声的に歌うことは、ある種の技術的卓越性を必要とする。訓練を必要とする。だとすれば、音楽を専門としない、音楽的な訓練を受けていない人が和声的な斉唱に加わることは、決して容易ではないだろう。

ニゾンが原始的な斉唱形態だとしたら、それはユニゾンの技術的参入障壁がもっとも低いからではないか。もちろん、音楽を専門にする人々は、さまざまな文化において存在してきたはずだが、にもかかわらず、音楽が生活の一部でありつづけているところで——ホーメイは牧畜生活と関係が深いという——、音楽が和声的な複雑さを志向してきていないのは、そのような音楽が単純だからではなく、複雑になることを意図的に拒むようなかたちで発展してきたからではないか。


*音楽の空間的な複雑性を拒む
カノンはこだまであり、時間的なズレを基調とするものだろう。同じ旋律を、時間軸をズラして、重ねていく。だから必ずしも音楽の先読みを必要としない。後からついていけばよいからだ。

しかし、フーガはそうではないのではないか。対位法的な技術は、音楽を空間的に概念化することを前提として要求しているのではないか。フーガのような音楽技法はどれぐらい普遍的と言えるのか。

打楽器のアンサンブルも、ある意味では、音楽の空間化を前提にしているところはあるかもしれないが、それはあくまで出てきた音の広がりという意味であって、音が鳴る前に然るべき音秩序を前提とするものだろうか。

その意味では、楽譜の発明が音楽の複雑化に果たして役割は大きいだろう。