うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

音楽メモ

ピアノの鍵盤のうえで形成されるアンサンブル:クララ・ヴュルツの唯一無二の自由闊達さ

クララ・ヴュルツというピアニストのことはまったく知らないまま、シューマンのピアノ曲を聞こうかと思ってYouTubeで「schumann piano」で出てきたBrilliant Classicsのビデオを再生して、一音目からひどく驚かされた。録音のせいかもしれないが、モダンピア…

音楽のキュビズム、または崩壊寸前のストラヴィンスキー『放蕩者の遍歴』の初演の最後

イタリアはヴェニスのフェニーチェ劇場で1951年9月11日に初演されたオーデン作詞ストラヴィンスキー作曲の『放蕩者の遍歴』は、オーデンの英語の韻律と、ストラヴィンスキーの音楽の拍動が重なりあわないようになっている――英語として自然なアクセントがある…

心地よく消えていく音楽:サヴァールとル・コンセール・デ・ナシオンの第九

ジョルディ・サヴァールとル・コンセール・デ・ナシオンのベートーヴェンは音が拡散していく。音楽が凝縮しないのだ。しかし、かといって、音が空間を充溢させるのでもない。音が輝かしく空間をただよい、すっと空気に溶けていく。これはもしかすると、バロ…

「私は繊細さの領域をいっそう広げました」(J・M・ネクトゥー『ガブリエル・フォーレ 1845-1924』)

「フォーレはまさに陶酔に近い喜びをもった中庸の音楽家なのであり、したがって、彼が伝えようとする深い内容やその哲学に気づくことなく、性急で注意を怠った聞き方をすれば、その音楽は優柔不断で単調なものにしか聞こえないであろう。/けれども、かつて…

健康的な倦怠感:Luiz Fernando Malheiroとアマゾナス・フィラルモニカの中音域の旋律的音楽

このところLuiz Fernando Malheiroというブラジルの指揮者の録音をYouTubeで聞いている。ネットで検索しても英語の情報はでてこないが、ブラジルのオペラ界の重要人物のひとりらしく、アマゾナス州の州都マウナスのアマゾナス・フィラルモニカの芸術監督を務…

ピアノ曲としての『トリスタン』:大井浩明の意図的に抑制的なピアニズム

大井浩明と聞いてすぐに思い出すのは、Timpaniから出ているアルトゥーロ・タマヨとルクセンブルク・フィルとのクセナキスの録音で、そこでの大井のピアノは、奏者の肉体的な限界と楽器の物理的限界とを対決させたような、表現としての軋みがあったけれど、こ…

ロシア的なパワーと照明の幻想味のミスマッチ:出所のよくわからない『トリスタン』の映像

どういう出所の映像なのかよくわからないが――カメラワークの稚拙さからすると、膝上録音ならぬ膝上録画のような感じもするが、そのわりには字幕が入っているのが解せない――オーケストラのあまりにパワフルな演奏にときどき思わず笑ってしまう不思議な魅力の…

室内楽編曲された『ワルキューレ』:ロングボロー音楽祭の映像

YouTubeのサジェッションでたまたま見つけたこのワーグナーの『ワルキューレ』の映像は、2021年6月8日、イギリスのコッツウォルズで開かれていたロングボロー音楽祭の記録とのことだが、室内オケのサイズにまで縮小したFrancis Griffinの編曲(4-4-3-3-2の1…

空虚な巨大さ:アイロニストとしてのロリン・マゼール

ロリン・マゼールの作り出す音楽の空虚な巨大さはひたすら不気味だ。全体の構えは大きく、音は停滞を嫌うかのように勢いよく流れていく。引き締まった硬めのリズムが小気味よい。それでいて、柔軟さに欠けているわけでもなく、しなやかさもある。抒情的な歌…

『マイスタージンガー』のハンス・ザックスの革命性

ドイツ語再勉強のためにワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のリブレットを読みながら、このオペラにおけるハンス・ザックスの立ち位置がわからなくなってきた。 彼がニュルンベルクにおいて尊敬を集める人物であることはまちがいない。ギル…

フェルドマン化されたバタゴフのシューベルト:拡大された細部の向こうの緩やかで穏やかな大きな流れ

アントン・バタゴフは最初の小節を何度か自由なかたちで繰り返す。左手の和音をまずは全音符で2回、それから楽譜通りのリズムで2回。音楽のパルスを定めるかのように。 そして、両手で譜面通りに最初の小節を4回。このとき音楽は前に進まない。波がたゆたう…

『大地の歌』の加筆部分の後期ロマン派のムード

ドイツ語再勉強のためにマーラーの『大地の歌』のテクストを読んでいると、そこには、東洋趣味(厭世的で享楽的な飲酒、移ろいゆきながら回帰する自然の鑑賞、東洋的庭園)だけではなく、後期ロマン派的なムードが入り込んでいることにも気づかされる。もの…

『パルジファル』のなかのアラブ的なもの

ワーグナーの最後の楽劇『パルジファル』はきわめてドイツ的なものだとずっと思い込んでいたが、先日ドイツ語の再勉強のために英語対訳版で台本を読んでいたら、クリングゾールの城は「アラブ系スペイン arabischen Spanien」(英訳だと「ムーア系スペイン M…

アバドの不完全さ:完結を拒否するワークインプログレス

クラウディオ・アバドの音楽は、なにかとても不完全に聞こえる。オーケストラのほうに能力が欠けているからではないし、指揮者のほうの力不足ということでもないだろう。音楽をする歓びがあふれだしているし、知的な洗練とともに、肉感的な愉楽もある。にも…

カイルベルトの職人芸の人間性:ドイツ・ローカルな指揮者

ヨーゼフ・カイルベルトは洗練をあえて退けるようなことをする。音が割れることもいとわず金管に咆哮させる。終結部では、造形が崩れることもいとわずアッチェレランドをかける。まるで綺麗にまとめることを生理的に拒むかのように。 しかし、この熱血な忘我…

マーラー交響曲5番4楽章アダージェットの映像化の可能性

もはやマーラーの交響曲第5番4楽章アダージェットをヴィスコンティの『ヴェニスに死す』と切り離してイメージすることができないこと、ゴンドラと水と甘美な死というイマージュが否応なしに喚起されてしまうことを引き受けた上で、なにかべつの美の可能性を…

モンポウの間:中古CD屋めぐり

中古CD屋めぐりは大学時代の日課だったけれど、留学してからはずっと遠ざかっていた。 最近また静岡の街中にあるなんということはない中古CD屋に週1ぐらいで通うようになった。 思わぬ掘り出し物がたまにある。 先日見つけたのは、モンポウのピアノ曲集。50…

浮世絵のように:朝比奈隆の力強い隈取、2次元的な平面的深さ

朝比奈隆の音楽は愚直に真摯であり、誠実な確信にあふれている。ときとして鈍重に響きはする。泥臭く、スタイリッシュではない。しかし、何かを真似ているのではない凄みがある。 朝比奈の指揮は決してうまくない。タクトだけでオケをドライブできる類の指揮…

生真面目な歓喜、意図的な野蛮:アーノンクールの呼吸と身振り

アーノンクールの演奏を聴くと、目をぎょろつかせた、何かに烈しく怒っている顔が頭に浮かぶ。しかしその顔をしばらく見つめていると、その憤激の裏に奇妙なユーモアがあることにも気づかされる。あまりに生真面目で、あまりに真剣なので、とても笑顔とは言…

小澤征爾という問題:東洋が西欧に喧嘩を売るために犠牲にしたこと

小澤征爾を聞くと、柄谷行人の言葉を思い出す。アメリカに行って、デリダやド・マンのようなことを英語でやることはできないと思ったが、言語の言語性に依拠しない純粋な論理が焦点となる分析哲学のような領域であれば渡り合えると思った、というような発言…

和声を操るリヒャルト・シュトラウス:グレインジャーのアレンジから聞こえてくるもの

リヒャルト・シュトラウスにとって、オーケストレーションは、作業的にこなせるものだったらしい。子どもが横で騒いでいるリビングであろうと、なんの問題もなくスコアの作成を機械的に進めていくことができた、とどこかで読んだことがある。 ポスト・ワーグ…

ゲオルク・ショルティの反復的なモダニズム:強制的な興奮に抗うか、それに身を任すか

ゲオルク・ショルティの方法論化されたモダニズムは、その方法論性にもかかわらず、一回的なものだったのかもしれない。ショルティのあまりに健康的な音楽は、不思議なことに、歴史の袋小路でもある。 日本のクラシック音楽批評でショルティの録音が手放しで…

朗読と手話による第9:シルヴァン・カンブルランとハンブルク響による創造的解釈

「3楽章と1場 In drei Sätzen und einer Aktion」と題されたハンブルク響とシルヴァン・カンブルランによるベートーヴェンの第九の映像は、基本的にベートーヴェンの音楽そのままでありながら、感触としては現代音楽的な古典の再解釈に近い仕上がりになって…

モダニズムとはべつの仕方で:クレメンス・クラウスの言葉による音楽

クレメンス・クラウスのモダニズムを継承した指揮者はいなかった。それとも、誰も彼のモダニズムを継承することはできなかった、と言うべきだろうか。繊細なフリーハンド、鷹揚な正確さ、抒情的な客観性、プラグマティックな完璧主義。20世紀の前衛音楽の両…

作為なき作為:フリッツ・ライナーの音楽の正しさ

フリッツ・ライナーのような指揮者はもう出てこないのではないか。ショーマンシップの真逆をいくような、魅せない指揮だ。オーケストラ奏者を従わせる指揮だが、聴衆を酔わせる指揮ではない。そこから生まれる音楽は峻厳で、諧謔味はあっても、陽気に微笑む…

流動する複層:エサ=ペッカ・サロネンの音楽の自然の秩序

流動する複層――エサ=ペッカ・サロネンの指揮する音楽をそのような言葉で言い表してみたい欲望に駆られる。サロネンの音楽は、多声的でありながら、和声的なところに回収されない。縦のラインで輪切りにして、それを連続させるのではなく、相互に独立した横…

ポスト・コロナ時代のオーケストラの響き:室内楽的な水平性、マスとしてのまとまりの希薄さ

「プルト」という単位は過去の遺物となってしまうのだろうか。 ここで弦奏者は、2人1組で譜面をシェアするのではなく、1人ずつ独立した譜面台を使っている。ひとりで譜めくりも演奏もこなさなければならないからだろう(プルト制であれば、ひとりが弾き続け…

的場昭弘『未来のプルードン』(亜紀書房、2020):孤独な思想家による所有と権力の批判

マルクスの永遠のライバルとしてのプルードン。マルクスの罵倒の常套戦略とは、相手の議論が誰かの二番煎じであることを徹底的な文献学的調査によって暴き立てることであるという。それはこじつけに近いところもあるが、論敵の信用を下げるうえでは一定の効…

ドホナーニの無骨な充実または音の密度:ひとつの音楽世界の体現としてのコンサート

この充実ぶりは何なのだろう。豊穣というわけではない。みずみずしい弾力性ではなく、生硬な不器用さがある。音は磨き抜かれているけれども、角が取れて滑らかになるのではなく、地肌が露出して、ごつごつとした手ざわりになっている。 無骨なのだ。音がぶつ…

チェリビダッケとベルリンフィルの出会い:リズミックな硬さと雄大なしなやかさ

チェリビダッケのスローテンポは、近くによりすぎると止まっているように見えるけれども、離れてみればすべてが動いていることがわかる悠然とした大河の流れを思わせる。でっぷりと腹の出たチェリビダッケの座った身体が水面下の動きのない動きをマクロに体…