うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

決して取り戻されることのない記憶:クナッパーツブッシュのローカルな特異性

ハンス・クナッパーツブッシュの指揮技術は傑出していたというが、残っている晩年の映像をみると、驚くほど何もしていないように見える。かなり長い指揮棒を使って、大きな身振りで、几帳面に折り目正しくリズムを刻んでいるだけに見える。音楽の要所で左手を使ったり、ここぞというところで立ち上がったりするものの、これ見よがしのわかりやすい動きはない。

しかし、実によくオーケストラを見ている。「暗譜で振らないのですか」という質問に、「わたしは楽譜が読めるから」と答えたという逸話が残っているが、映像を見るかぎり、スコアをめくってはいるものの、視線はずっと奏者に向いている。これはまちがいなく奏者のための棒だ。聴衆を意識したスペクタクルの要素は皆無である。

クナッパーツブッシュもまた逸話に事欠かない指揮者ではある。日本のクラシック音楽批評ではなぜかやたらと豪放磊落な人物扱いされているけれど、指揮姿を見ていると、ひどく繊細でシャイな人だったのではないかという気がしてくる。最終的に聴こえてくる音楽はきわめてユニークではあるけれど、それは指揮者のエゴが刻印されているからではないように思うからだ。

たしかにテンポは際立って遅いし、音楽を深く抉るようなところもあるから、エキセントリックに聞こえるのは本当だ。しかし、それは、いってみれば、古典的な均整のなかの外れ値であって、古典的な均整それ自体の転覆ではない。予定調和な外しではないが、西ヨーロッパ的伝統ありきの特異性である。

クナッパーツブッシュが結局のところドイツ圏のローカルな指揮者にとどまったのは、理由あってのことだろう。ワーグナーブルックナーという19世紀後半のドイツ音楽のスペシャリストだったからという側面もあるにはあるだろうけれど、彼の作る音楽があまりにハイコンテクストであり、ヨーロッパ的伝統を内面化した奏者を前提としていたというのが最大の理由だろう。

クナッパーツブッシュの演奏にはほかの誰の演奏にも感じられないくつろいだ雰囲気がある。だらしなくユルいのではなく、心地よくリラックスしている。構えは大きいが、威圧感はない。素朴な手触りがある。丁寧にざっくりと織られた麻のような、素直に心地よい手作り感。

それはおそらく、クナッパーツブッシュが、大枠を引くのが上手いからだ。音楽のいちばん大きなフレームをカチッと定め、そのなかで、奏者の自発性や自律性を自由に発揮させる。

しかしそこで引き出される奏者のポテンシャルは、クナッパーツブッシュが作り出したものではなく、奏者がもともと持っていたものだ。鄙びた感じ、素朴なみずみずしさが押し出される。洗練された田舎そばとでも言いたくなるような、自己撞着。

クナッパーツブッシュの音楽は、目が詰まっていない。縦線が揃っていないわけではない。低音を基盤にして音を積み上げていくタイプであり、正確な指揮棒と相まって、全体のアンサンブルは完全な楷書体である。しかしそんな几帳面な字が、大きな紙に、たっぷりと余白を残して――しかし余白が寂しく感じられるどころか、もっと余白があってもいいと思わせてくれるぐらいに――悠揚と描き出されると、どこか素朴な感じがしてくる。土臭さがある。プリミティヴなものに近い気がしてくる。

ミニマリスト的と言ってもいいかもしれないけれど、そぎ落とすことでもなければ、蒸留させることでもない。減らすことも足すこともしないまま、本質だけがグイっとせり出してくる。不思議なまでに郷愁を喚起する。それはもしかすると、聴衆だけではなく奏者にも当てはまることなのかもしれない。

そんなのどかさやのびやかさを好きになれるかは、聞き手次第だろう。しかし、このハイコンテクストなローカルさはまちがいなくすでにほとんど失われてしまったものだと思う。だからこそ、彼の音楽を聴くと、少し哀しく寂しく思う。

彼の音楽がわたしたちの回帰すべき故郷だとは思わない。しかしこの田舎が失われたことは、やはり、惜しい気がする。クナッパーツブッシュの音楽は決して戻ってこないものの記憶である。

 

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